5月27日は、ルターと並び評されるキリスト教宗教改革・新教(プロテスタント)の指導者カルバンが、1564年に亡くなった日です。
ジャン・カルバンは、1509年フランス北部、ベルギーに近いノマイヨンという商業の盛んな町に弁護士の子として生まれました。早くから秀才ぶりを発揮して父親をこえるほどでした。パリ大学でルターの教えを信じる教授の影響から聖職者を目ざしましたが、父親の強い勧めで法律を学ぶことになりました。
大学を卒業するとまもなく、カルバンは ルター の教えの素晴らしさに気づき、これを広めることが使命であることをさとりました。ちょうどそのころフランス国王が、新教を禁止しはじめたため、カルバンはスイスのバーゼルという町に逃げ、そこで『キリスト教綱要』という本を著しました。この著書は、今も、新教のもっとも優れた教科書のひとつとなっています。
1563年、カルバンは旅の帰途にスイスのジュネーブ市を訪れました。この町は、牧師のファレルの努力で新教が広まっていましたが、ファレルは説教があまり上手ではありませんでした。カルバンは内気な人でしたが、議論をするとだれもかなわないほど説得力がありました。ファレルからジュネーブの宗教改革に協力するように要請されたカルバンは、およそ2年半ほどこの地にとどまり、請われて市政にもたずさわりました。しかし、まことにきびしい規則をこしらえたのと、教会勢力の拡大を恐れた市当局は、ファレルらと共にカルバンをジュネーブから追放してしまいました。
ところが、カルバンたちが去ってからも少しもよくならないジュネーブの治安に、カルバンを呼びもどそうということになりました。こうして3年半後、ジュネーブにもどったカルバンは、サン・ピエール教会の牧師兼ジュネーブ学院神学教授として、年間数百回もの説教と講義を続けたばかりか、亡くなるまで30年近くにわたって、ジュネーブ市の政治と教会改革を強力に指導しました。
カルバンは以前と同じように、きびしい規則を市会に要求しました。禁止させたものには次のようなものがありました。貴金属の飾り、はでな色の衣服を着ること、ばくち、ダンス、飲酒、讃美歌以外を歌うこと……等々。規則を破った者は重罪とし、死刑にすることさえありました。
いっぽうカルバンは、商工業に深い関心を持ち、絹織物工業や時計製造業者らに積極的に金を貸し出し、「人がまじめに働くならば、お金をもうけてもよい。利子をとるのもけっこう。でも、ぜいたくは神の教えにそむくもの」と説きました。
このようにカルバンの教えには、市民が経済的に豊かになる道が示されていたので、フランスやオランダ、イギリスの商工業者の間に急速に広まっていったのです。
特にイギリスの清教徒というカルバン主義者たちが、17世紀のはじめにアメリカに渡り、国を作る基礎を築いたことや、1649年にイギリス清教徒革命といわれる民主主義運動をやりとげたことは、特筆すべきでしょう。宗教改革者として後世に大きな影響を与えたのは、ルターよりむしろカルバンといえるかもしれません。
「5月27日にあった主なできごと」
743年 墾田永年私財法…奈良時代中ごろ、聖武天皇 は、墾田(自分で新しく開墾した耕地)永年私財法を発布しました。それまでは、3代まで私有地を認める「三世一身の法」を実施していましたが、開墾がなかなか進まないため、永久に所有を認めるものでした。これにより、貴族や寺社、神社などが積極的に開墾をすすめ、「荘園」といわれる私有地が増えていきました。
1910年 コッホ死去…炭疽(たんそ)菌、結核菌、コレラ菌などを発見し、細菌培養法の基礎を確立したドイツの細菌学者 コッホ が亡くなりました。
1904年 日本海海戦…日露戦争中のこの日、東郷平八郎の指揮する日本海軍の連合艦隊と、ロシアの誇るバルチック艦隊が対馬海峡付近で激突。2日間にわたる戦いで、ロシア艦隊は、戦力の大半を失って壊滅。日本側の損失はわずかで、海戦史上まれな一方的勝利となりました。当時後進国と見られていた日本の勝利は世界を驚かせ「東洋の奇跡」とさえいわれました。優位に立った日本は、8月のポーツマス講和会議への道を開きました。