今日5月26日は、10年以上も続いた日本最大の内乱といわれる応仁の乱が、1467年に本格的な戦闘に入った日です。
この戦乱の主な原因は、室町幕府8代将軍足利義政に仕える管領の細川勝元と山名持豊(宗全)ら有力守護大名の対立でした。
当時、守護大名たちは将軍よりも力をつけていました。15世紀のはじめころから、地方の村の武士(小武士)たちは、京都の公家や社寺の荘園の警備にあたっていましたが、一部の小武士の中に力の弱い公家や社寺の荘園を横取りしたり、年貢をごまかしたりするものが出てきました。困った公家や社寺は、そんな小武士たちににらみのきく守護大名の世話を受けるようになりました。はじめのうちは年貢のとりたてをしてあげたものの、次第に年貢の横取りや荘園をまきあげるようになる守護大名がいて、小武士たちを囲うようになります。幕府に力がないため、それを取り締まることができなかったためです。
足利義政は、わずか13歳で室町幕府8代将軍将軍になりました。父義教が殺され、父のあとをついだ兄義勝は病死したためです。しかし、幕府の実権をにぎっていたのは、細川勝元、山名持豊らの守護大名でした。そのうえ、ききんがつづいて農民たちの一揆がおこり、世は乱れていました。
義政は、自分の思いどおりの政治ができないばかりか、農民や貧しい人びとの借金を取り消す徳政令を何度もだして、世の中の経済をみだしてしまいました。そして、妻にむかえた日野富子や富子の兄の日野勝光までが、政治に口だしするようになると、将軍義政の存在は、ますます影のうすいものになっていきました。
やがて義政は、のんびり気ままな暮らしを求めて、将軍職を弟義視にゆずる決心をしました。ところが、富子が、義政の子義尚を生みました。富子は、持豊をうしろだてにして義尚をたて、義視をしりぞけようとしました。すると、ほかの守護大名たちも、自分の立場を有利にすることだけを考え、勝元側と持豊側に分かれて、対立するようになりました。
こうして、勝元側24か国12万の武士を集めた東軍12万と、持豊側西軍20か国9万が京都でぶつかりあいました。戦いは一進一退で勝負がつきません。20万戸といわれた京の町はほとんど焼き払われ、名品の数々も失われてしまいました。
この「応仁の乱」は10年余りで終わりましたが、この大乱の余波は、地方に燃え広がることになりました。やがて戦国大名たちが各地であらそう「戦国時代」に突入するのです。
「5月26日にあった主なできごと」
1180年 以仁王・源頼政の死…保元の乱、平治の乱を経て 平清盛 が台頭、平氏政権が形成されたことに対し、後白河天皇の皇子以仁王(もちひとおう)と源頼政が打倒平氏のための挙兵を計画。これが露見して追討を受け、宇治平等院の戦いで敗死しました。しかしこれを契機に諸国の反平氏勢力が兵を挙げ、治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)が6年間にわたって続き、鎌倉幕府誕生の前哨戦となりました。
1877年 木戸孝允死去…西郷隆盛、大久保利通と並ぶ「維新の三傑」の一人で、明治新政府でも活躍した 木戸孝允 が亡くなりました。
1933年 滝川事件…京都帝国大学の滝川(たきがわ)教授の休職を、国が一方的に下す思想弾圧事件滝川事件がおきました。京大事件とも呼ばれます。