今日5月24日は、高麗末の武官で李氏朝鮮という王朝を開いた李成桂(り せいけい)が、1408年に亡くなった日です。
1392年から1910年までのおよそ500年のあいだ、朝鮮半島に李氏朝鮮とよばれる王朝時代がありました。李成桂は、朝鮮をひとつにまとめて李王朝を開き、第1代目の王となった武将です。
1335年に、現在の北朝鮮の永興に生まれた李成桂は、少年時代から、馬に乗ることや、弓を射ることにすぐれていました。そのため、当時朝鮮半島をおさめていた高麗王に武士としてつかえ、戦ではつぎつぎにてがらをたてました。また、朝鮮のまわりの海にあらわれ、人びとが倭寇とよんでおそれていた日本の海賊を、たびたびうちやぶり、やがて軍司令官に任命されて、国の政治にまで力をもつようになりました。
同じころ中国では、明の国が起こり、それまで高麗王が従ってきた元は、しだいにおとろえつつありました。
ところが、高麗王朝は、いつまでも元にしたがうことをやめません。しかも明と戦いを始めた元に応援の軍をおくることをきめ、李成桂に兵をつれて明へ行くことを命令しました。
「これからの高麗は、明となかよくしなければいけない」
李成桂は、元のみかたをすることに反対でした。でも、国の命令であればしかたがなく、軍をひきいて明へ出発しました。
しかし、中国との国境まで行った李成桂は、明と戦うのがばかばかしくなり、そのままひき返して逆に高麗王の城を攻め、元に頭をさげようとする人びとを追いはらってしまいました。
「みだれている政治を改めて、国をたてなおすのだ」
李成桂は、新しい王をたて、自分が中心になって国の政治にとりくみ始めました。まず第1に土地の制度を改め、土地をぜんぶ国のものにして、貴族にも役人にも農民にも、国がきめた土地をわけあたえるようにしました。この制度の目的は、かってに領地を広げて勢力をふるっていた貴族たちの力を、すっかり弱めてしまうことにあったのです。
1392年、李成桂は、ついに王位につき、400年以上もつづいた高麗にかわって新しい王朝を開きました。また、その翌年には、国号を朝鮮と定め、1396年には、国の都を開京(いまのケソン)から漢陽(ソウル)に移しました。
李氏朝鮮国は、中国に始まった儒教を重んじ、農民をたいせつにしながら、すこしずつ栄えていきました。しかし、1408年に李成桂が死んで1世紀半をすぎたころ、外国から侵略されるようになり、国はふたたびみだれていきました。李成桂は死後に太祖とよばれ、朝鮮国建国の1ページをかざっています。
「5月24日にあった主なできごと」
1543年 コペルニクス死去…宇宙が太陽を中心として回転していると唱えた天文学者 コペルニクス が亡くなりました。
1949年 満年齢の採用…「年齢の唱え方に関する法律」が公布され、従来の「数え年」から、「満年齢」に変わりました。数え年は、生まれた年を1歳とし、新年をむかえるたびにひとつ歳をとる数え方に対し、満年齢は、生まれたときは0歳、誕生日がくると1歳を加える数え方です。