児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ Top >  今日はこんな日 >  「鉢の木」 の北条時頼

「鉢の木」 の北条時頼

 今日5月14日は、鎌倉時代の第5代執権で、北条氏本家による独裁政治の基礎を確立した北条時頼が、1227年に生まれた日です。

大雪の夜、上野国佐野(群馬県高崎市)あたりで、ひとりの僧が、1軒のあばらやに一夜の宿をたのみました。すると家の主人は、貧しくてもてなしのできないのをわびながら「せめて、からだでもあたためてください」と、大切にしていた鉢植えの梅や松や杉の木を、いろりでたいてくれました。その主人は、いまはおちぶれていても、佐野源左衛門と名のる武士でした。

やがて、春になって鎌倉幕府が兵をあげようとしたときのこと、鎌倉へかけつけた武士のなかに源左衛門がいるではありませんか。また、源左衛門がふと見ると、幕府をおさめる執権のそばに、いつかの僧がいるではありませんか。この僧こそ、まえの執権北条時頼だったのです。時頼は、源左衛門を呼んで鉢の木をたいてくれた礼をいい、さらに、貧しくても鎌倉へかけつけてくれた武士の心をほめて、広い土地をあたえました。

これは「鉢の木」と題する謡曲に語り伝えられている話です。事実かどうかはわかりません。しかし、北条時頼が、人びとの暮らしぶりを知るために身分をかくして町や村をたずねるほど、細かい心くばりをする政治家であったことを、よく伝えています。

1227年に生まれ、3歳のときに父を失い、祖父の北条泰時にきびしく育てられた北条時頼は、病気の兄にかわって19歳で、鎌倉幕府の執権職を受けつぎました。このときは、もう、祖父も亡くなっていました。

執権になった時頼は、まず、執権職をひそかにねらっていた名越光時や、幕府のなかで大きな力をもつようになってきた三浦氏を、2年のうちに討ち、北条氏の権力をますます強いものにしました。そのうえ、1252年には、鎌倉幕府の第5代将軍源頼嗣をしりぞかせて、後嵯峨上皇の皇子宗尊親王を征夷大将軍として鎌倉へ迎え、幕府を安泰にしました。

すぐれた政治の才能をもっていた時頼は、こうしてまたたくまに、北条氏の独占体制を固めました。ところが、執権職の位にあったのは、宗尊親王を迎えてから、わずか5年でした。29歳で執権職を北条長時にゆずり、出家してしまったのです。

しかし、出家したのちも、長時を助けて、人びとから信頼される幕府をつくるために、力をつくしました。自分からすすんで倹約しながら貧しい農民たちを救ったといわれ、「鉢の木」のような話が生まれたのも、時頼が、武士だけではなく町人や農民からもしたわれたからです。

時頼は、1263年36歳で病死しました。するとそのとき、おおくの武士が、時頼の死を悲しんで出家したと伝えられています。

鎌倉の建長寺は、禅宗を信仰していた時頼が建てたものです。


「5月14日にあった主なできごと」

1221年 承久(じょうきゅう)の乱…後鳥羽上皇はこの日、京都近隣の武士1万7千人を集め、鎌倉幕府執権の北条義時追討の命令を出しました。幕府軍は19万の軍勢でこれをむかえ討ち、敗って、上皇を隠岐島へ流しました。鎌倉幕府成立後、京都の公家政権との二頭政治が続いていましたが、この乱以降は幕府が優勢となり、皇位継承にまで影響力を持つようになりました。

1796年 ジェンナーの種痘…イギリスの外科医 ジェンナー は、牛痘にかかった人の膿を少年に接種 (種痘) し、天然痘という伝染病を根絶させるキッカケとしました。そのため、5月14日は「種痘記念日」に制定されています。

1839年 蛮社の獄…この日、江戸幕府目付の鳥居耀蔵は、田原藩士 渡辺崋山高野長英 らを逮捕しました。蛮社とは、洋学者を中心に町医者・藩士・幕臣等有志の者が海防目的で蘭学や内外の情勢を研究していた尚歯会(しょうしかい)を「野蛮な結社」と国学者たちがさげすんだことによります。崋山や長英らは、浦賀沖へ来航したアメリカ船モリソン号に砲撃を加えたことを非難。これへの反感からの逮捕でした。

1878年 大久保利通死去…明治維新をおしすすめた西郷隆盛、木戸孝允とともに「維新の三傑」とよばれ、明治新政府の土台をささえた最大の指導者 大久保利通 が暗殺されました。

1948年 イスラエル建国…イスラエルの地(パレスチナ)に故郷を再建しようという、ヨーロッパを中心におこった「シオニズム運動」の結果、紀元前のイスラエル王国にちなんだユダヤ人の国家イスラエルを、この日に建国しました。これに怒ったレバノン、シリア、ヨルダン、イラク、エジプトのアラブ連盟5か国は戦争を宣言、9か月にわたるパレチスナ戦争(第1次)がはじまりました。この戦争で、パレスチナを追われた100万人ものアラブ人は難民となり、いまだに「アラブ─イスラエル」対立の構図はなくなりません。

投稿日:2010年05月14日(金) 07:40

 <  前の記事 オーストリアの母 マリア・テレジア  |  トップページ  |  次の記事 ゾルゲ事件と尾崎秀実  > 

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://mt.izumishobo.co.jp/mt-tb.cgi/2044

コメントを投稿

(いままで、ここでコメントしたことがないときは、コメントを表示する前にこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)

         

2014年08月

          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

月別アーカイブ

 

Mobile

児童英語・図書出版社 社長のこだわりプログmobile ver. http://mt.izumishobo.co.jp/plugins/Mobile/mtm.cgi?b=6

プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)