今日5月13日は、ハプスブルク家の女帝として40年間君臨し、現在のオーストリアの基盤を築いたマリア・テレジアが、1717年に生まれた日です。フランス王ルイ16世の妃となる マリー・アントワネット ら16人の子を産んだことでも知られています。
マリア・テレジアは、当時の王族としては珍しく夫フランツ・シュテファン(神聖ローマ皇帝フランツ1世)と恋愛結婚で結ばれました。父親であるカール6世の死後、23歳でオーストリア皇帝の座につき、全ハプスブルク家領を一括相続しました。しかし、周辺諸国フランス・スペイン・バイエルン・プロイセンはこの相続を認めず、8年間にわたるオーストリア継承戦争がおこりました。
オーストリアは、たび重なる長期間の戦争のため戦費も底をつき、援軍もなく窮地に追いこまれました。それでも、なんとかイギリス、オランダの支援を得て、最も強硬だったプロイセン王フリードリヒ2世と和解することに成功し、ほとんどの世襲領を確保しました。
マリア・テレジアは、さまざまな国内改革を進めました。これまであちこちに分散していた軍制や行政や財政、王領地管理を一本化したこと、他国に先がけて全土に均一の小学校を新設して義務教育を確立させたこと、徴兵制を実施することによってオーストリアの軍事力を格段に高めたことは、大きな功績といわれています。
1765年夫の死後は、それまで持っていた豪華な衣装や装飾品をすべて女官たちに与えてしまい、喪服だけの生活を送ったといわれています。1780年に亡くなるまで長男ヨーゼフ2世と共同統治をしましたが、ヨーゼフ2世の急進的な改革姿勢とはしばしば意見を対立させたようです。
マリア・テレジアは、心やさしい女王でもありました。シェーンブルン宮殿内に作られた庭園や動物園を一般市民に開放するなど、民衆から慕われる政策を実行に移し、苦境にあってもくじけない芯の強さを持っていました。そして、死の直前まで末娘でフランス王妃になったマリー・アントワネットの身を案じていたといわれています。
「5月13日にあった主なできごと」
1401年 日明貿易…室町幕府の第3代将軍 足利義満 は、民(中国)に使節を派遣し、民との貿易要請をしました。民は、遣唐使以来長い間国交がとだえていた日本との貿易を認めるかわりに、民の沿岸を荒らしまわっていた倭寇(わこう)と呼ばれる海賊をとりしまることを要求してきました。こうして、日明貿易は1404年から1549年まで十数回行なわれました。貿易の際に、許可証である勘合符を使用するために「勘合貿易(かんごうぼうえき)」とも呼ばれています。
1894年 松平定信死去…江戸時代中期、田沼意次一族の放漫財政を批判して「寛政の改革」とよばれる幕政改革おこなった 松平定信 が亡くなりました。
1930年 ナンセン死去…ノルウェーの科学者でありながら北極探検で多くの業績を残し、政治家として国際連盟の結成にも力をつくした ナンセン が亡くなりました。