今日5月10日は、イギリスの支配から逃れようとインド人がおこした反乱(セポイの反乱)が1857年におきた日です。2年以上にわたる反乱もイギリスが制圧してインドを植民地化、偉大な指導者 ガンジー やネルーがあらわれるまで、100年近くも支配を続けました。
イギリスがインドとの貿易をはじめたのは17世紀はじめからで、東インド会社を1611年にマスリパタムに設置して、インド貿易に本格的に乗り出しました。その後ムガール帝国の衰退に乗じて勢力を拡大、1757年にはプラッシーの戦いでフランス等との戦に勝ち、インドでの支配権を確立して富を得ていきました。
19世紀の半ばには、イギリス軍は28万人ほどの規模となっていましたが、そのうち23万人はイギリスが雇っていたインド人傭兵でした。セポイというのは、このインド人の傭兵のことをさします。
1857年、イギリス軍は新式の銃を導入し、その銃に弾丸を充てんする時、弾丸の包み紙を歯でかみ切って詰めるように兵士たちに指示しました。ところが、この包み紙に牛と豚のあぶらを染みこませてあるといううわさが立ちました。
インド人は、ヒンズー教かイスラム教のどちらかを信仰しています。ヒンズー教徒は牛を神聖な動物として大切にし、イスラム教徒は豚をけがらわしい動物として口にすることを禁止しています。そんな動物から取ったあぶらが使用されているとしたら困るので、セポイの代表がイギリス将校に申し入れしたところ、多くのセポイが罰を受け、監獄に入れられた者もいました。
セポイの反乱は、デリー北方のメーラトで起こりました。この反乱は自分たちの国を支配しようとしているイギリス人たちへの反発として、あっという間に全国に飛び火しました。そしてイギリス人たちのインドからの撤退を要求しだしました。
これに対しイギリス軍は強力な軍隊を投入し、9月にはデリーでの激しい攻防戦を制しました。そして1858年3月にはクラノーを虐殺に近い戦闘で占領、同年夏頃までに全土を鎮圧してインドをイギリスの直轄領にしたのでした。
「5月10日にあった主なできごと」
1863年 下関事件…長州藩は下関海峡を通るアメリカ商船を攻撃しました。これが下関事件です。これは、孝明天皇の命により14代将軍家茂が5月10日を攘夷期限と奏上したことに呼応したもので、他に実行する藩がありませんでした。長州藩はフランス艦、オランダ艦にも発砲、6月1日には米・仏艦が報復攻撃に来航するなど、長州藩は苦境に立つことになりました。
1871年 円誕生…近代日本貨幣法として「新貨条例」が制定され、「円」が誕生しました。現在はほとんど使われませんが、円の100分の1「銭」、銭の100分の1「厘」も決められました。
* 「中欧旅行」とゴールデンウィークの休暇により長期間休載いたしましたが、本日よりウィークデイの公開を心がけます。兄夫妻とツアー参加したプライーベートでの「中欧旅行」も、懸念した火山灰騒動の影響も全くなく、天気にもめぐまれて、まことに快適な旅行を堪能してきました。旅行の詳しい内容につきましては、右にリンク(rinks)している「十(とお)一(はじめ)こと、酒井猛夫のブログ」に詳細な旅行記がスタートしました。あわせてご愛読いただければ幸いです。