今日3月15日は、古代ローマの政治家で終身執政官となるも、「ブルータス、お前もか!」という有名なセリフを残して暗殺されたシーザー(カエサル)が、紀元前44年に亡くなった日です。
ジュリアス・シーザーが、どこに生まれどのように育ったかについては、詳しいことはわかっていません。ローマの名門貴族の家に生まれながら権力争いに敗れて、ロードス島に逃げのび、そこで学問や雄弁術、武力を身につけたといわれています。
ローマにもどったシーザーは、叔母の関係で、平民派に加わりました。当時のローマは、貴族派と、平民派があって権力のうばいあいで争っていました。シーザーが選挙に当選し、平民派の若い統領としてその名が知られるようになったのは、20代の後半でした。
当時ローマでもっとも勢力のあった軍人は、貴族派のポンペイウスでした。地中海の東部の国ぐにを征服してからは、これを快く思わない貴族派に腹をたてたポンペイウスは、平民派にくらがえすると、若いシーザーと手を結びました。クラッススをなかまにひき入れた二人は、しだいに貴族派をおさえつけ、ローマの政治を動かす中心となりました。これが「ローマの三頭政治」です。
クラッススが死去して三頭政治が崩れたのち、シーザーは北方のガリア(現フランス)へおもむいて戦争を指揮、ガリアをローマの支配下におきました。この時の記録が『ガリア戦記』で、簡潔に表現された内容は高く評価されています。その後、シーザーはエジプトも従えたため、その名はローマじゅうになりひびきました。
シーザーの名声を恐れたポンペイウスは、シーザーを追放しようとしましたが、BC49年『賽は投げられた』といって「ルビコン川」を渡ってローマに帰国すると、ポンペイウスは逃亡しました。
BC48年にポンペイウスを討ち破ったシーザーは、独裁官に就任、ローマの政治と軍事を握って事実上の君主となりました。さらにエジプトに出兵してクレオパトラを女王の座につけ、アフリカ北部や小アジアも転戦して、BC46年にローマにもどりました。
帰国後シーザーは、終生執政官に就任。エジプトの太陽暦をもとにした『ユリウス暦』をこしらえたり、貧困者政策を行なったりしましたが、シーザーの独裁に反対するブルータスらの勢力によって暗殺されたのでした。
なお、シーザーの詳しい生涯につきましては、いずみ書房のホームページで公開しているオンラインブック「せかい伝記図書館」第2巻 「シーザー」 をご覧ください。
「3月15日にあった主なできごと」
1928年 3.15事件…日本共産党は、第1次世界大戦後に秘かに党を結成して、労働者の政治運動をさかんに行なっていました。そして、1928年2月の第1回普通選挙で、共産党を含む無産政党から8名の当選者を出しました。これに脅威を感じた田中義一内閣は、共産党を含む左翼団体の関係者千数百名を捕らえ、治安維持法違反の罪で処罰しました。これが「3.15事件」で、これ以降共産党や労農党は結社を禁止されました。この時逮捕された徳田球一や志賀義雄らは、1945年10月にGHQの指令で釈放されるまで18年間、獄中につながれたままでした。