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色彩画家ルノアール

今日2月25日は、フランスの印象派の画家で、風景画や花などの静物画から人物画まで、日本をはじめ世界中でもっとも人気の高い画家の一人 ルノアールが、1841年に生まれた日です。

「目に見えた物を、ただ正確に美しく描くのではなく、見た瞬間に感じたことや印象に残ったことを、絵にしていこう。また、暗いアトリエから外にでて、明るい太陽の下で、きらめく色彩と光線をたいせつにして絵をかこう」

19世紀の半ばすぎから20世紀のはじめに、このような考えで、絵をかくことが盛んになりました。印象派とよばれる絵です。

1841年にフランス中部のリモージュで生まれたピエール・オーギュスト・ルノアールは、この印象派で世にでた画家です。

小学生のころ、授業中に絵ばかりかいて先生をおこらせたルノアールは、家が貧しかったため、13歳のときから陶器工場で皿に絵をかいてはたらくようになりました。そして4年ののちには、扇子に絵をかく仕事にかわり、家の暮らしを助けながら、少しずつ絵の勉強をつづけました。

ルノアールの画家への道は、このようにして自然に開け、22歳のときには、はやくも展覧会に入選しました。

「形式にとらわれず、自由な色で自由な絵をかこう」

やがて、モネやシスレーとともに印象派の絵をかくようになり、33歳のときからほとんど毎年のように印象派展を開いて、大成功をおさめました。ルノアールは、この印象派展に、街で楽しそうにあそぶ人びとを描いた『ムーラン・ド・ラ・ガレット』などの傑作を、数おおく出品しました。

しかし、皿や扇子に絵をかいていたころから、絵は自分の感ずるままに楽しんでかくのだ、と信じてきたルノアールは、40歳をすぎると印象派の人びととはなれ、自分だけの絵をかきつづけるようになりました。

そののち、とくにおおく描いたのは、あどけない少女や、自然のままの女のすがたでした。なかでも、ありのままの女は、豊かな色で、やわらかく、あたたかく描くことを、どこまでも追究して『泉のほとりの女』『髪をゆう娘』などの名画をたくさん残しました。

59歳のとき、すばらしい芸術がみとめられて、国から、フランス最高のレジオン・ドヌール勲章がおくられました。ところが、このころから、関節がいたみ始め、リューマチに苦しめられるようになりました。

しかし、ルノアールは、絵をかくことをやめませんでした。車いすを使い、開かない手に絵筆をしばりつけて制作にはげみ、1919年78歳で世を去るまで、絵をかき、楽しむことを忘れませんでした。そして生涯に、3000点以上の絵をかいたということです。

なお、2008.2.8号のブログで、ルノアールの「坐るジョルジェット・シャンパンティエ嬢」 を記述しました。参考にしていただければ幸いです。


「2月25日にあった主なできごと」

903年 菅原道真死去…幼少の頃から学問の誉れが高く、学者から右大臣にまでのぼりつめたものの、政敵に陥れられて九州の大宰府へ左遷された平安時代の学者 菅原道真 が亡くなりました。

1000年 一条天皇2人の正妻…平安時代中期、政治を支配していた関白の 藤原道長 は、長女の彰子(しょうし)を一条天皇に嫁がせ、孫を天皇にしようと画策していましたが、この日藤原定子(ていし)を一条天皇の皇后に、彰子を中宮として、ともに天皇の正妻としました。

1670年 箱根用水完成…5年にもわたるノミやツルハシでトンネルを掘る難工事の末、芦ノ湖と現在の裾野市を結ぶ1280mの用水路箱根用水が完成しました。幕府や藩の力を借りずに、延べ人数83万人余という農民や町民の手で作り上げ、現在に至るまで裾野市とその周辺地域に灌漑用水を供給している技術は、高く評価されています。

1945年 河口慧海死去…中国や日本に伝承された漢訳の仏典に疑問をおぼえ、仏教の原典を求めて単身ネパールや鎖国中のチベットに入った、仏教学者で探検家の 河口慧海 が亡くなりました。

1953年 斉藤茂吉死去…写実的、生活密着的な歌風を特徴とするアララギ派の歌人の中心だった 斎藤茂吉 が亡くなりました。

投稿日:2010年02月25日(木) 09:13

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)