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マルチ芸術家・本阿弥光悦

今日2月3日は、豊臣秀吉の時代から江戸初期にかけ、書、陶芸、蒔絵、茶道、作庭、能面彫などさまざまな芸術に秀で、出版までも手がけた本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)が、1637年に亡くなった日です。

江戸時代の初めに書道の名人だった本阿弥光悦、近衛信尹(のぶただ)、松花堂昭乗この3人を「寛永の三筆」とよんでいます。

あるとき、信尹が光悦にたずねました。

「いま、天下の書道の名人といえば、だれであろうか」

すると光悦は、まず自分の手の親指を折ってから答えました。

「つぎは近衛さま、そのつぎは八幡の坊の昭乗どのでしょう」

「なに、すると1番はだれだ」

「はい、それは、わたくしでございます」

これを聞いた信尹は、自分は2番めといわれても、光悦の堂々とした言葉に、おこることもできませんでした。これは、光悦が人にへつらわない、いかにも芸術家らしい人間であったことを伝える話です。

本阿弥光悦は、1558年に、京都で何代も刀の鑑定をつづけてきた名家に生まれ、刀の美を学びながら成長しました。

しかし、光悦は、ただ刀の品定めをするだけでは、おさまりませんでした。10歳のころから約30年、織田信長と豊臣秀吉 の力で、はなやかな安土桃山文化が栄えた時代に生きて、しだいに芸術家の道へ入っていったのです。

それも、ひとつやふたつの芸術を学んだのではありません。書道のかたわら絵もかきました。とくに、すずり箱などの漆器に、金、銀、銅、錫の粉末や顔料とよばれる絵の具でかく蒔絵では、青貝をちりばめる方法を考えだして、光悦蒔絵とよばれるほどのものを完成させました。

茶道を学ぶうちに、焼きものの深い美しさにひかれ、名器といわれる茶わんも作りました。また、石を並べ池を掘って、名園とたたえられる庭も作り、能を愛して能面も彫りました。

さらに、学問をたいせつにした光悦は、自分が字を書き 俵屋宗達 が絵をかき、ふたりで力を合わせて、歌集や『方丈記』『徒然草』などの古い名作を出版しました。

光悦が手をのばした芸術の広さは、おどろくばかりです。しかも、作られたものは、どれも歴史に残っています。

1615年、57歳のとき、光悦は徳川家康から京都の北の鷹峰に土地をあたえられ、この地におおくの芸術家たちを集めて芸術村を作りました。そして、自分は書を書き、茶わんを焼き、茶の湯を楽しみ、1637年に79歳で芸術家の生涯を終えました。

年をとってからの光悦は、持っていた名器や名作は人にあたえ、自分はそまつな道具で、気ままに暮らしたということです。


「2月3日にあった主なできごと」

1468年 グーテンベルク死去…ドイツの金属加工職人で、活版印刷技術を実用化し、初めて聖書を印刷したことで知られる グーテンベルク が亡くなりました。

1717年 大岡忠相が江戸町奉行…8代将軍 徳川吉宗 に認められ、大岡忠相 が江戸町奉行に任命されました。ただし、越前守の名裁判官ぶりはほとんど作り話で、江戸市民に愛され尊敬されていた忠相の人柄が、人情味あふれる庶民の味方として認識され、講談などで広く知られるようになったといわれています。

1809年 メンデルスゾーン誕生…世界3大バイオリン協奏曲(コンチェルト)の一つと賞賛される「バイオリン協奏曲」をはじめ、「真夏の夜の夢」「フィンガルの洞窟」などを作曲したことで知られる メンデルスゾーン が生まれました。

1901年 福沢諭吉死去…「学問のすすめ」「西洋事情」などを著し、慶応義塾を設立するなど、明治期の民間教育を広めることに力をそそぎ、啓蒙思想家の第一人者と評される 福沢諭吉 が亡くなりました。

投稿日:2010年02月03日(水) 09:13

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)