今日1月22日は、イギリス最大の詩人のひとりといわれるバイロンが、1788年に生まれた日です。
バイロンは、ヨーロッパじゅうが、ゆれ動き、混乱していた19世紀の初めに、ロマン派の代表的な詩人として活躍した人です。するどい感覚で、おおくの詩をつくり、名をあげましたが、とつぜん軍隊に加わって、戦闘の中で死にました。短い人生でした。しかし、いつも情熱を燃やしつづけ、自由を求める、はげしい生涯をおくりました。
バイロンは、ロンドンの貴族の家に生まれましたが、父は家を捨てて、旅にでてしまいました。そのため、のこされた家族は、スコットランドのいなかに、うつり住み、ひっそりと暮らしました。バイロンは、森や墓場をさまよっては考えをめぐらし、詩を読む生活をこのみました。足が生まれつき不自由だったことを気にして、たいへん神経質でした。しかし、人に弱味を見せたくないという、負けずぎらいの性格を持ち、野原を走り回ったり、川で泳いだりするほど活発な面もありました。
やがて、青年になったバイロンは、ケンブリッジ大学に入りますが、はげしい反抗心のため、とちゅうでやめてしまいます。バイロンの考え方は、ますます情熱的になり、21歳のとき、自由を求めて、イギリスをとびだしました。スペインから地中海沿岸の町まちをさすらいながら、詩をつくる毎日でした。もてあますほどの情熱をもっていたバイロンは、ある時、流れの急なダーダネルス海きょうを、泳いでわたりました。必死にとめる友人をむりやりふり切って、海にとびこみました。「泳いだのは、名誉のためだ」と、バイロンは詩に書いています。
旅は、2年にわたりました。バイロンは、旅行中のさまざまな感動を『チャイルド・ハロルドの巡礼』と題する長編詩にあらわしました。この作品で、バイロンはいちやく、すい星のように、文学の世界におどりでました。1812年のことです。人気詩人となったバイロンは、議員におされたり、はなやかな社交界でもてはやされたりしながら、つぎつぎに詩集を発表しました。『邪宗徒』『アビュドスの花嫁』『海賊』『コリントの包囲』などの物語詩です。
ところが、人気詩人として思いのままの生活をおくる傲慢なすがたが、しだいに評判を悪くして、イギリスに居づらくなりました。バイロンは、ギリシアへわたり、独立戦争に参加します。「詩人としての、ぼくの仕事は終わった」と言って、1824年に戦地へおもむきますが、重い熱病におかされ、急死してしまいました。まだ36歳という若さでした。
「死ぬことなど何とも思わない。でも、この世に愛するものを残していくのは何と心残りなことだろう……さあ、それでは眠ることにしよう」という臨終の言葉を残して……。
「1月22日にあった主なできごと」
1793年 大塩平八郎誕生…江戸時代後期の儒学者で大坂町奉行所の与力を勤めるも、窮民救済を叫んで反乱(大塩平八郎の乱)をおこして失敗した 大塩平八郎 が生まれました。
1905年 血の日曜日事件…ロシアの首都ペテルブルクで、労働者10数万人が皇帝へ請願のデモ行進をしていたところ、軍隊が突然発砲し3千人余りの人たちが死傷しました。当時は、日露戦争のさなかで、年初に旅順が陥落するなど、人々の生活の苦しさはピークに達していました。この事件をきっかけに、各地にソビエトが生まれたために「ロシア第1革命」ともよばれています。