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鎌倉幕府をはじめた源頼朝

今日1月13日は、はじめて武士による政権となった鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝(みなもとのよりとも)が、1199年に亡くなった日です。

平安時代の中期以降、天皇や貴族が治めていた摂関政治、院政の世に、武士が力を強めてきたのは、1156年におこった「保元の乱」がきっかけだといってよいでしょう。この戦は、天皇側と上皇側との争いでしたが、武士の源氏(棟梁・源義朝)と平氏(棟梁・平清盛)は、後白河天皇に味方して勝利をおさめました。

源頼朝は、この源氏の棟梁だった源義朝の3男として1147年に生まれました。

ところが「保元の乱」で勝利した後白河天皇は、清盛にばかりに目をかけたために、義朝は気に入りません。その3年後の1159年に、両者の戦いとなる「平治の乱」がおこって、義朝は清盛に敗れてしまいました。そして、敗れた義朝は鎌倉に落ちのびる途中で殺され、13歳で参戦した頼朝も捕えられてしまいました。処刑されるはずの頼朝でしたが、清盛の継母にあたる池禅尼に懇願された清盛は、頼朝を伊豆の小島に島流ししました。

ライバルを討ち負かした清盛の勢いは、「平家にあらずんば人にあらず」というほどの権勢を誇りましたが、「おごる平家は久しからず」の言葉通り、長くはつづきませんでした。

天皇から上皇となった後白河法皇が、1177年、平家を倒す計画が漏れた事件「鹿ヶ谷密談」などが契機となって反平氏運動が高まり、やがて1180年には法皇の皇子である以仁王(もちひとおう)による平氏討伐の命が、伊豆に流されていた頼朝のもとに届きました。

豪族たちに監視されて、20年もの間ひっそりと暮らしていた頼朝でしたが、その豪族のひとりである北条時政の娘政子と結婚して、北条氏を味方につけた頼朝は立ち上がることにしました。

でも、この時の頼朝の兵はわずか300名ほどだったため、たちまち敗れて安房・館山に逃げ落ちました。頼朝はこの地で、保元の乱のときに父義朝の家臣となっていた武士をはじめ、関東の多くの地にいた武士をときふせながら、ついに数万もの大軍を率いて鎌倉に入り、平氏に対抗するようになりました。

驚いた清盛は、すぐに平維盛を総大将とする大軍を関東に進軍。頼朝はこれを迎えうつために静岡の富士川の東岸に対陣しました。ところが、平氏軍は深夜の水鳥の羽音を、夜襲と勘違いして逃げ出したのです。(1180年富士川の戦い) 戦わずして勝利した頼朝は平氏を深追いせず、関東に地盤を固めて、鎌倉に幕府の基礎を確立しました。

この戦い以来、源平の戦はあちこちで続き、北陸では木曽義仲(源義仲)が挙兵し、平家軍を敗って京都に進軍していきましたが、義仲がそこで乱暴を働くとみるや、頼朝は義仲を討ちました。さらに弟の源義経 を大将にして平家を攻めさせて、一の谷、屋島の合戦でやぶり、1185年3月に壇ノ浦まで追いつめ、ついに平氏をほろぼしました。

この戦勝により義経は、頼朝の指示を受けることなく、朝廷から官位を受けるなど、後白河法皇に利用されはじめました。頼朝は、兄弟を仲たがいさせようとする朝廷の陰謀を知り、義経に警告しました。でも義経はそれを理解できず、反対に後白河法皇へ頼朝追討の院宣を出してもらったのです。しかし、義経のもとに集まる兵力は少なく、都から奥州藤原氏を頼って逃げました。

当時の奥州は藤原秀衡(ひでひら)が統治していました。秀衡は、頼朝の義経引渡しの要求に応じませんでしたが、1187年に亡くなると、後継者の藤原泰衡は、翌年4月に義経を衣川の高館で殺害しました。頼朝はこの泰衡の行為に怒り、藤原氏が義経をかくまったことを責めて、大軍を率いて奥州征討を開始し、9月に藤原氏は滅び、頼朝は全国の支配権を手にしました。

こうして、頼朝は1192年に征夷大将軍になり、鎌倉幕府を開いたのでした。

なお、頼朝の詳しい生涯につきましては、いずみ書房のホームページで公開しているオンラインブック「せかい伝記図書館」第21巻 「源頼朝」 をご覧ください。

頼朝は、自分に厳しくまた周囲の者にも厳しい人でした。そのため、弟の義経や範頼をはじめ手柄のあった者も殺しています。これが頼朝の失敗だったのでしょう。その後の政治を継いだのは、妻の政子とその一族の北条氏でした。結局、頼朝が長い苦労の末に築き上げた源氏による幕府は、わずか3代でその幕を閉じてしまいました。

 

「1月13日にあった主なできごと」

1653年 玉川上水…江戸幕府は急増する江戸市民の水を補うために、町人(玉川)清衛門、庄衛門兄弟に建設を命じました。多摩川上流の羽村から四谷まで50km余に水を通す出す大規模な難工事で、翌年6月、江戸市内に流れこんだ清流に、江戸市民は躍り上がって喜びました。江戸の人口は、17世紀末には100万人に達し、ロンドンやパリを越えて世界一だったそうです。

1860年 咸臨丸出港…江戸幕府のオランダから購入した洋式軍艦咸臨丸は、この日品川沖からアメリカに向けて出港しました。勝海舟 を艦長に、福沢諭吉中浜万次郎 らをのせて、初の太平洋横断に成功しました。
 
1864年 フォスター死去…「オールドブラックジョー」「故郷の人々」など数多くの歌曲を作曲したアメリカを代表する作曲家 フォスター が亡くなりました。

1935年 ザールがドイツ復帰…ドイツとフランスの国境にあり良質な石炭に恵まれ鉄鋼業や工業が盛んだったザール地方は、第1次世界大戦後ドイツ本国から分離され、フランスの保護領になっていました。この日の住民投票の結果、ドイツへ復帰、ヒトラーはこれをナチスの勝利として、さらに領土拡大のために軍備を整えていきました。

投稿日:2010年01月13日(水) 09:21

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)