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銀閣寺を建てた足利義政

今日1月7日は、室町幕府の第8代将軍でありながら政治に興味がなく、11年も続く内乱「応仁の乱」をひきおこすきっかけをこしらえた足利義政が、1490年に亡くなった日です。しかし、国宝となっている銀閣寺を建てるなど、東山文化を遺した功績は高く評価されています。

足利義政は、わずか13歳で将軍になりました。父義教が殺され、父のあとをついだ兄義勝は病死したからです。しかし、幕府の実権をにぎっていたのは、細川勝元、山名持豊らの守護大名でした。そのうえ、ききんがつづいて農民たちの一揆がおこり、世は乱れていました。

義政は、自分の思いどおりの政治ができないばかりか、農民や貧しい人びとの借金を取り消す徳政令を何度もだして、世の中の経済をみだしてしまいました。農民たちのことを考えたからではありません。義政は意志が弱く、農民たちの強い訴えにいつも負けたのです。そして、妻にむかえた日野富子や富子の兄の日野勝光までが、政治に口だしするようになると、将軍義政の存在は、ますます影のうすいものになっていきました。

「勝元に助けさせて、弟の義視をつぎの将軍にしてしまおう」

やがて義政は、のんびりした気ままな暮らしを求めて、将軍職を弟にゆずる決心をしました。

ところが、義視に将軍の位をゆずる約束をしたよく年、富子が、義政の子義尚を生みました。母親が、わが子を将軍にしようとねがうのはとうぜんです。富子は、持豊をうしろだてにして義尚をたて、義視をしりぞけようとしました。すると、ほかの守護大名たちも、自分の立場を有利にすることだけを考え、勝元がわと持豊がわに分かれて、対立するようになりました。

1467年、将軍の座をめぐる争いは、細川氏と山名氏の勢力争いもからんで、京都を中心に、日本じゅうを戦乱のうずにまきこみました。これが、11年にもおよぶ内乱「応仁の乱」の起こりです。

義視をたてた義政は、勝元がわにつきました。でも、戦乱のようすを、ただ、ながめているばかりでした。つぎの将軍のことなど、どうでもよかったのかもしれません。

戦乱が始まって6年ご、義政は、義視との約束をやぶって義尚に将軍職をゆずり、趣味の世界へ心をよせていきました。そして、争いがおさまると、長い戦で京都の町は焼け野原になったというのに、東山に山荘を建てることを計画しました。1階を書院造風の住宅、2階を禅宗様式の仏堂とした銀閣です。

政治に無力だった義政は、幕府の権威をおとしました。しかし、のちの世に大きなものを残しました。義政の力が中心になって栄えた建築、生け花、茶の湯、連歌、能楽などの文化です。いまはこれを、金閣寺を建てた3代将軍 足利義満 の「北山文化」に対し、銀閣寺の地名から「東山文化」とよんでいます。

晩年を文化人として生きた義政は、54歳で亡くなりましたが、このとき、夢にえがいた銀閣は、まだ完成していませんでした。


「1月7日にあった主なできごと」

1835年 前島密誕生…日本の近代郵便制度の創設者で「郵便」「切手」「葉書」という名称を定めた 前島密 が生まれました。

1868年 征討令…1月3日〜6日の鳥羽・伏見の戦いに勝利した維新政府は、この日江戸城にこもった 徳川慶喜 に征討令を出し、同時に諸藩に対して上京を命じました。征討軍の総帥は 西郷隆盛。そして4月11日、徳川家の謝罪を条件に江戸城・明け渡し(無血開城)が行なわれました。

1932年 スティムソン・ドクトリン…アメリカの国務長官スティムソンは、この日「満州における日本軍の行動は、パリ不戦条約に違反するもので、これによって生ずる一切の状態を承認することはできない」との声明を発し、日本政府を弾劾しました。これが、太平洋戦争に至るアメリカの対日基本方針となりました。

1989年 昭和天皇崩御・・・前年から容態が危ぶまれていた昭和天皇が、この日十二指腸の線がんで亡くなりました。皇太子明仁親王が即位し、昭和64年は平成元年となりました。昭和は日本の元号のなかでは最も長い62年と2週間でした。

投稿日:2010年01月07日(木) 07:04

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)