食べものや飲みものをとおして伝染し、高い熱とともに腹痛をおこして、血のまじった下痢便をするようになる赤痢。むかしは、この赤痢にかかると治療のしかたがわからず、たくさんの人が命を失いました。今日12月18日は、この病気をひきおこす赤痢菌を、世界で初めて発見したことで知られる細菌学者の志賀潔が、1870年に生まれた日です。
潔は、明治の初めに仙台市で生まれ、少年時代は昆虫がすきで野山をかけまわりました。12歳で入学した県立宮城中学(いまの仙台一高)では、成績はとくにすぐれてはいませんでした。でも、一歩一歩、努力をしていく生徒だったということです。
15歳のとき東京へでて大学予備門(のちの第一高等学校)に学び、やがて、東京帝国大学医科大学(いまの東京大学医学部)へ進みました。そして26歳で卒業すると、伝染病研究所へ入りました。研究所長の 北里柴三郎 を尊敬していたからです。
潔が柴三郎のもとで研究を始めた、つぎの年、日本じゅうに赤痢がはやって、患者は9万人ちかくを数えるようになりました。死者が1万人、2万人とふえていきます。
「1日も早く赤痢菌を見つけて、死者をくいとめなければ……」
潔は、患者の大便や、死亡者の腸からとりだしたものを研究室にもちこみ、顕微鏡をのぞきつづけました。そして、長さ千分の3ミリという小さな菌を発見すると、その菌を動物に注射して、実験をくり返しました。動物は、次つぎに病気になり、症状は赤痢患者と同じです。
「まちがいない、これが腹痛や下痢をおこす赤痢菌だ」
潔の研究成果は、1897年11月に開かれた大日本私立衛生会総会で発表され、さらに翌年には、論文がドイツの細菌学会雑誌をかざって潔の名はまたたくまに世界に広まりました。また、赤痢菌は、志賀の名をとって「シゲラ」と名づけられました。潔に、ねばりづよく努力していく性格があったからこそ、この大発見をなしえたのかもしれません。
その後の潔は、ドイツに留学して世界的な細菌学者エールリヒの教えをうけ、人体に菌に対する抵抗力をもたせるための免疫学や、アフリカで流行していた睡眠病の研究に大きな成果をあげました。そして、およそ5年の留学を終えて帰国してからは、北里研究所の創立に力をつくし、さらに、慶応義塾大学の教授などをつとめて若い医学生の指導にもあたり、1957年に86歳で世を去りました。日本の近代化のなかで、世界に通用する科学研究の成果をなしとげた尊い生涯でした。
「12月18日にあった主なできごと」
1779年 平賀源内死去…江戸中期の蘭学者、博物学者で、エレキテルの製作や燃えない布の発明、小説や戯作家としても活躍した平賀源内が亡くなりました。
1891年 足尾鉱毒告発…田中正造 はこの日の議会で、足尾鉱山の選鉱カスによる鉱毒、山林の乱伐、煙害や排水により、渡良瀬川の洪水と結びついて、沿岸一体の農地を荒廃させた「足尾鉱毒問題」をとりあげて、事態の重大性を訴え、銅山の即時営業停止と農民の救済を政府にせまりました。
1914年 東京駅開業…新橋─横浜間にわが国はじめての鉄道が敷かれて以来、東京では新橋が始発駅でしたが、この日東京駅の開場式が行なわれ、東海道本線と電車駅の始発駅は、東京駅となりました。
1956年 国際連合に加盟…この日、国際連合の総会が開かれ、満場一致で日本の国連加盟を承認し、80番目の加盟国になりました。1933年に国際連盟を脱退してから23年目にして、ようやく国際社会に復帰しました。