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流行歌王・古賀政男

今日11月18日は、『丘を越えて』『影を慕いて』『青い背広』など、日本人の心にふれるメロディで、今も口ずさまれているたくさんの歌謡曲を作った作曲家 古賀政男が、1904年に生まれた日です。美空ひばりの歌で大ヒットした『柔』や『悲しい酒』も古賀政男の作品です。

古賀政男は、福岡県に生まれました。父は、せと物を売り歩く商人でした。政男が6歳のとき、父は病気で亡くなり、母のせつは、政男や弟をつれて朝鮮(今の韓国)の仁川に渡りました。長男の福太郎や次男の時太郎たちが、仁川の金物問屋ではたらいていたので、それをたよって行ったのです。

政男は音楽の好きな少年でした。仁川で朝鮮の労働者のうたう民謡に思わず聞きほれました。そのころ、はやりはじめた大正琴に夢中になって、じょうずにひいて人をおどろかせたりもしました。やがて、京城に自分の店を開くようになった兄の福太郎は、こうした政男に感心しませんでした。苦労して一人前になった兄は、音楽など生活の上でなんのたしにもならないと考えていました。それで、政男も将来は自分といっしょにはたらかせようと考えて、商業学校に入れました。

政男は18歳のときには、大阪にできた兄の支店ではたらきました。しかし、東京に出て自分の才能をためしてみたいという希望をすてることはできません。ある日、政男はわずかばかりの貯金とマンドリン1つを持っただけで、店をとび出しました。こうした政男をかげながらはげましてくれたのは、母のせつでした。母はとぼしいお金をはたいて送ってくれました。政男ははたらきながら、明治大学予科に通いました。大学には、できたばかりのマンドリンクラブがあり、ここに入った政男は、演奏に指揮にすぐれた腕を見せました。

政男の作曲ではじめて注目されたのは、自分で詩も書いた、『影を慕いて』です。この曲がマンドリンクラブの演奏会で歌われると、会場は割れんばかりの拍手でした。政男が大学を卒業した年、この曲はレコードとして売り出され、大好評で全国に流行しました。つづいて作曲した『酒は涙か溜息か』も、100万枚を突破し、政男は一躍、人気作曲家となりました。

「いい詩をみると、からだがふるえるような気がする」

それでも、その詩にぴったりの曲が心にうかんでくるまで、政男は作曲にかかりません。作曲してからも、マンドリンを手にして自分で歌いながら、わるいところをなんどでも直して、うたいやすく、おぼえやすいものにしていきます。そこにヒットの秘密があるのでしょう。生涯に5000曲以上も作曲した政男は、1978年病に倒れましたが、「古賀メロディ」は今も生きつづけています。

死後まもなく、前年756号ホームラン世界新記録達成した王貞治に続き、2人目の国民栄誉賞を受賞しています。


「11月18日にあった主なできごと」

1901年 八幡製鉄所操業…福岡県北九州市に建設された八幡製鉄所が操業を開始しました。近代化を推し進めていた明治政府が、殖産振興・富国強兵をもとにしたわが国初の本格的な製鉄所で、日露戦争、第1次世界大戦での鉄鋼需要の急増で、急速に発展しました。

1903年 パナマ運河条約…太平洋とカリブ海を結ぶパナマ運河は、スエズ運河をひらいた レセップス が開発に着手しましたが、難工事のため断念。アメリカ合衆国はパナマとの間でパナマ運河条約を結び、10年以上もかけて建設を進めて、1914年に開通させました。そのため長いあいだアメリカによる支配が続いてきましたが、1999年末、パナマに完全返還され、現在はパナマ運河庁が管理しています。

1928年 ミッキー・マウス誕生… ディズニー が制作したアニメ映画「蒸気船ウィリー」がこの日ニューヨークの劇場で上映されました。主役は、ディズニーが可愛がっていたネズミをモデルにしたミッキー・マウス。初めてのトーキー・アニメ映画だったこともあって大評判になりました。

投稿日:2009年11月18日(水) 09:14

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)