今日8月11日は、1338年のこの日、室町幕府を開いた足利尊氏(あしかが たかうじ)が、北朝の光明天皇から征夷大将軍に任命されました。
1333年5月、源頼朝 が鎌倉に武士の政府を開いてから143年後、鎌倉幕府が滅亡しました。そのいきさつを振り返ると、次の通りです。
鎌倉時代の後期、執権の北条氏の政治のやり方に不満を持つ武士が多いのを知った 後醍醐天皇 は、武士に奪われた政権を自分たちのものにしようと、1331年に「元弘の乱」といわれる倒幕の兵をあげましたが失敗、天皇は、隠岐島にながされてしまいました。しかし、1333年の5月になると、幕府側の御家人である上野国の 新田義貞 や下野国の 足利高氏(のちの尊氏) らが幕府から朝廷へ寝返り、諸国の反幕府勢力を集めはじめました。
この動きを知った後醍醐天皇は隠岐島を脱出してふたたび倒幕の兵を挙げ、京都では、足利高氏の兵が六波羅探題(鎌倉幕府の出先機関)を滅ぼし、関東では、新田義貞の軍が挙兵し、北条高時ら北条氏一族283人を自害させ、鎌倉幕府が滅亡しました。
鎌倉幕府滅亡後は、1333年6月に、後醍醐天皇が「建武の新政」を開始しましたが、武士層を中心に不満がまきあがり、1336年には協力してきた足利尊氏が離反、新田義貞・楠正成 を中心とする天皇軍を湊川でうち破り入京を果たしました。さらに尊氏は、京都近郊の合戦で政府軍をほぼ壊滅させて、8月には光明天皇を擁立して室町幕府を開き、「建武式目17か条」を制定して、幕府の施政方針を確立しました。
1338年のこの日、尊氏は、征夷大将軍に任命されましたが、いっぽう、後醍醐天皇は吉野に逃れて南朝を建てて、その正当性を主張していました。そのため、政権としての室町幕府はなかなか安定せず、3代将軍 足利義満 の時代になって、ようやく機構的な体裁が整いました。
なお、足利尊氏の詳しい生涯は、いずみ書房のホームページで公開している「せかい伝記図書館」23巻「足利尊氏」をご覧ください。