今日7月22日は、オーストリアの司祭で、植物学研究を行い、メンデルの法則と呼ばれる遺伝に関する法則を発見したメンデルが、1822年に生まれた日です。
「親と子どもは、なぜ、よく似るのだろう」
むかしからのこの疑問を、エンドウ豆の実験でときあかしたのが、ヨハン・グレゴール・メンデルです。
メンデルは、1822年オーストリアの果樹園に生まれました。子どものころから父と母の仕事をてつだって、くだものや花を栽培するのが大好きでした。赤や黄色の花をとびかうミツバチを観察したり、果樹のつぎ木に工夫をこらしたり、楽しい幼年時代をすごしました。
ところが、メンデルが17歳になったとき、父が大けがをして、家はすっかり貧しくなってしまいました。そこで、メンデルは修道院に入ることにしました。食べるための心配をしないで、すきな学問ができると考えたからです。そして神父の勉強をしながら、大学を卒業して、中学校で理科を教えるようになりました。しかし、先生になる資格をもっていないため、正式の教師ではありませんでした。
メンデルは、正式の教師になるために、国の試験を受けました。でも、どうしたことか、試験には合格しませんでした。
「正式の教師にはなれなくても、研究はできる」
メンデルは、修道院の庭に草花を植えて、同じ植物の花でも色違いのものが咲く原因の研究を始めました。そして、ダーウィン が書いた『種の起源』という本を読み、こんどは草花のかわりにエンドウ豆を植えて、花粉のかけあわせによる遺伝の研究にむちゅうになりました。遺伝には、きっとひとつの決まりがあると考えたからです。
花や実の色や形が違うエンドウ豆を植え、その花粉をピンセットで移してやって、とれた種をまた植えるという実験を、8年ものあいだつづけました。
「2代め3代めにあらわれる、規則正しい性質がわかったぞ」
1865年、メンデルは、『植物雑種の研究』という論文をまとめて発表しました。ところが、名も知れず、正式の教師でもない男の研究など、だれも理解してくれませんでした。メンデルは悲しみました。
やがて修道院の院長になると、こんどは、修道院に税金をかけようとする国の権力とたたかいつづけて、1884年に、62歳でさみしくこの世を去りました。
メンデルの遺伝の法則が世界でみとめられたのは、それから16年ものちのことです。実験を続けた修道院には、いまでは大理石の像がたてられ、遺伝学の父とよばれるようになりました。
以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで公開中)11巻「ナイチンゲール・シュリーマン・パスツール」の後半に収録されている7編の「小伝」の一つ 「メンデル」をもとにつづりました。