7月10日は、1821年に、江戸時代後期の測量家 伊能忠敬(いのう ただたか)が中心となって制作した日本全土の実測地図「大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)」が完成し、江戸幕府に献上した日です。
忠敬は1745年に、上総国小関村(現千葉県九十九里町小関)の名主の家に生まれましたが、18歳のときに造り酒屋の伊能家に養子に行き、傾きかけた家業を立て直すのがはじめの仕事でした。それから、造り酒屋のあるじとして励むこと30年。忠敬はようやく家業を息子に継がせることができました。そのときすでに50歳になっていましたが、幼少の頃の天文学に対するあこがれを捨て切れず、江戸に出ました。
忠敬が江戸で門をたたいたのは、浅草にあった幕府の天文方暦局でした。ここは星を観測して暦を作るところです。その天文方暦局の長は高橋至時(よしとき)という人で、当時まだ31歳でしたが、天文学の第一人者でした。当初、至時は忠敬のことを「年寄りの道楽」だと思っていました。でも、忠敬は毎晩寝る間も惜しんで星を観測し、5〜6年もすると、もう立派な学者になっていました。
当時の謎は地球の大きさでした。地球が丸いことはわかっていましたが、その円周がどれだけあるのかわかりません。そこで忠敬は「北極星の高さを2つの地点で観測し、見上げる角度を比較することで緯度の差がわかり、2地点の距離がわかれば地球の外周が割り出せる」と提案しました。この2つの地点は遠ければ遠いほど誤差が少なくなると、師弟は考えました。
そこで忠敬は江戸からはるか遠方の蝦夷地(北海道)に行く決意を固めました。至時は忠敬の熱意に押され、幕府に忠敬の蝦夷地行きを願い出ました。やがて幕府の許しをえた忠敬は、1800年、わが子秀蔵と弟子2人を連れて蝦夷地をめざしました。
地図を作る方法は原始的なものでした。旗を2本立てて、そこを何歩で歩けるのかを数えるものでした。3人が歩いて、その平均値を出すのです。旗と旗の角度は方位磁石で測りました。こうして忠敬は3年がかりで蝦夷地、東北、関東、中部を回り東日本の地図を作り、幕府に献上しました。
忠敬の地図の正確さは驚くほどです。緯度1度がおよそ111km程度に相当すること、またそれを元に、地球全体の外周がおよそ4万km程度であると推測した値は、現在計測されている数値と0.1%程度の誤差なのだそうです。
さらに忠敬は、西日本地図の作成にかかりました。全部を測り終えたときは71歳になっていました。地図は各地ごとに作りましたが、それを合わせてみるとズレが生じてしまいます。丸い地球を測りながら、それを平らの紙に書いたため誤差が生じるためです。忠敬は再計算を重ねましたが、日本地図がほぼ完成する直前に74歳で死去しました。そして、3年後に地図作りを引きついだ弟子たちの手で完成させ、1821年のこの日に幕府に献上したのです。
この地図は「伊能図」ともいわれ、延長56メートルに達する大図(36000分の1・214枚)、中図(216000分の1・8枚)など合計7種類の地図があります。
なお、伊能忠敬の詳しい生涯は、いずみ書房のホームページ・オンラインブックで公開している「せかい伝記図書館」第27巻「伊能忠敬」をご覧ください。