7月7日は、江戸時代初期の仙台藩主伊達政宗の家臣で、慶長遣欧使節団を率いてヨーロッパへ渡航した支倉常長(はせくら つねなが)が、1622年に亡くなった日です。
1613年の秋、仙台の西の月ノ浦港から、1せきの大きな船がヨーロッパへむかって出帆しました。船には、仙台藩主伊達政宗のけらいの支倉常長と、およそ150人の武士や船乗り、それに神父ルイス・ソテロをはじめ日本へきていた40人ほどのスペイン人が乗っていました。
このとき42歳だった常長は、日本とスペインとの貿易を開くために、政宗の使者として、スペイン国王とローマ法王のもとへ旅立ったのです。船は、約3か月かかって太平洋を越え、さらに大西洋を渡って、スペインの港へ入りました。
スペインの首都マドリードにたどりついた常長は、国王に、政宗からの手紙を渡しました。そして、教会で洗礼を受けてキリスト教の信徒となり、やがてローマへ行って、ローマ法王に会いました。法王からは、ローマ市民権と貴族の称号があたえられました。
ところが、ローマ法王からも、スペイン国王からも、日本とスペインとの貿易は、許してもらえませんでした。そればかりか、スペイン政府は、船に乗ってきた日本人を、つめたくあつかうようになってしまいました。
政宗からの手紙には、日本でキリスト教をひろめることを許すかわりに、スペイン国と貿易させてほしい、と書いてあったのですが、ローマ法王もスペイン国王も、江戸幕府はキリスト教を禁じ、日本ではキリスト教信者が苦しめられていることを、知っていたのです。
「使者の役目は果たせなかったが、しかたがない」
常長は、暗い気持ちで船に乗り、マニラに2年ちかくとどまったのち、1620年に日本へ帰ってきました。月ノ浦をでてから7年の歳月がたっていました。
常長の苦労は、なにもなりませんでした。そのうえ、7年ぶりの日本は、キリスト教のとりしまりが、さらにきびしくなり、洗礼を受けてキリシタンになってもどってきた常長は、あわれにも政宗から見捨てられてしまいました。そして、やがて病にたおれ、日本へ帰ってきて2年めに、51歳の生涯をひっそりと閉じてしまいました。
支倉常長は、1571年に生まれ、少年のころから仙台藩につかえた、まじめな武士でした。21歳のとき、朝鮮との戦いでてがらをたてたこともありました。常長の一生は悲劇でしたが、荒海を越えて見知らぬ外国へのり込んだ勇気は、いまも高くたたえられています。
以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで公開中)25巻「徳川家康・松尾芭蕉・近松門左衛門」の後半に収録されている7編の「小伝」の一つ 「支倉常長」をもとにつづりました。
「7月7日の行事」
今日7月7日は、何といっても「七夕」ですね。こんなロマンチックな中国の伝説が、もとになっています。
天の神様の娘の織女星(こと座のベガ)は、美しい織物を織る名手でした。とても仕事熱心なため、年頃になってもボーイフレンド一人作りません。かわいそうになった神様は、天の川のむこうに住む働き者の牽牛星(わし座のアルタイル)という若者と結婚させました。ところが、結婚すると二人は、あんまり毎日が楽しくて牽牛星は織物を織らなくなり、牽牛星も牛を追わなくなったのです。怒った神様は、天の川のこちらの岸に織女星を連れもどし、1年に一度の「七夕の夜」だけ向こう岸に行ってよいことにしたのです。7月7日の晩、空が晴れると、白鳥たちが天の川にたくさん舞い降りて、翼で橋を架けてくれます。織り姫はその白鳥たちの橋を渡って牽牛に会いに行くのです。
いっぽう日本には、「棚機つ女(たなばたつめ)」という民間信仰がありました。少女はこの日に、身を清めて衣を織り、機織り機の棚の上に置いて、神様をお迎えし、穢れを取り去ってもらうというもので、この伝統と中国の伝説がいっしょになって、7世紀の頃から宮中の行事になり、江戸時代の末期になって、一般の人たちもこの行事をはじめるようになったといわれています。
「7月7日にあった主なできごと」
1615年 武家諸法度発布…5月に大坂夏の陣で、豊臣氏を滅ぼした徳川幕府は、2代将軍の徳川秀忠の名で全国諸大名に「武家諸法度」13か条を発布しました。自分の領地と江戸とを1年ごとに毎年4月に参勤することを指示した参勤交代制、築城の厳禁、幕府による大名やその側近の結婚許可制などの統制令でした。
1937年 盧溝橋事件…北京に近い盧溝橋で、中国・国民党政府軍と日本軍との間に発砲事件がおこりました。日中戦争(支那事変、日華事変)の発端となったこの事件をきっかけに、日本軍と中国は戦争状態に突入し、戦線を拡大していきました。