今日6月24日は、豊臣秀吉 の家臣として仕え、秀吉没後は 徳川家康 の家臣となり、関ヶ原の戦いの働きによって熊本藩主となった加藤清正(かとう きよまさ)が、1562年に誕生、1611年に亡くなった日です。
加藤清正は、尾張国(愛知県)中村に生まれ、幼名を夜叉丸といいました。父を早く失い、幼いうちに母の縁をたよって近江国(滋賀県)長浜に移り、そのころ長浜城の城主となっていた羽柴(豊臣)秀吉に仕えました。元服ご、虎之助清正と名のります。
清正は、19歳のころから出陣して、次つぎに手がらをたてました。とくに、清正の名をとどろかせたのは、秀吉が柴田勝家と天下を争った賤ケ岳の戦いです。やりを手にした勇ましい戦いぶりで、秀吉の家来の7本やりのひとりに数えられるようになり、3000石を与えられました。そして、秀吉が天下統一への道を進めば進むほど、清正も出世をとげ、1588年には、肥後国(熊本県)の半分を支配する19万5000石の大名になりました。このとき、まだ26歳の若さでした。
1592年、1万の兵をひきいて海を越え、朝鮮へ攻めこみました。明(中国)を討つために、まず朝鮮を征服しようとする秀吉の命に従ったのです。城を落とし、国王を追い、王子を捕えて北へ北へ進む清正の戦いぶりは、のちに虎退治をしたという話までつくられるほど、勇ましいものでした。
ところが、明軍が朝鮮に味方をするようになると、戦いは苦しくなり、いっしょに出陣していた小西行長や日本にいた 石田三成 らの考えで、朝鮮との講和がすすめられました。でも清正は戦いつづけることをとなえ、そのため行長、三成と少しずつ対立するようになっていきました。
講和は成功せず、日本へひきあげていた清正は、1597年にふたたび海を越え、勇敢に戦いました。
文禄・慶長の役とよばれる、この朝鮮での戦いは、1598年の秀吉の死で中止されましたが、対立した行長や三成とのみぞは、ますます深まるばかりでした。
秀吉が死んだあとの権力争いから、1600年に天下分け目の関ヶ原の戦いが起こると、九州にいた清正は、行長の城を攻めました。徳川家康がわについたのです。そして、その手がらで52万石の大名となり、天下に誇る熊本城をきずきました。しかし、このとき家康に味方をしても、豊臣家の恩は、生涯、忘れませんでした。そのごも、秀吉が残した秀頼を守りつづけています。
49歳で世を去った清正は、けっして、ただ強いだけの武将ではありませんでした。城をきずく技術にすぐれ、また、土木工事に力を入れて田を広げ、領民たちのことを深く考えた政治を進めました。いまも、「清正公(せいしょこ)さん」とよばれて、熊本の人びとに愛されつづけています。
以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで公開中)24巻「武田信玄・織田信長・豊臣秀吉」の後半に収録されている7編の「小伝」の一つ 「加藤清正」をもとにつづりました。
「6月24日にあった主なできごと」
672年 壬申の乱の始まり…大化の改新以来、新しい政治をおこなってきた天智天皇が671年に亡くなり、その子の大友皇子が弘文天皇となりました。吉野(奈良県)で出家し、隠遁していた天智天皇の弟・大海人(おおあまの)皇子は、この日吉野を出て、地方豪族を味方につけて反旗をひるがえし、朝廷軍に勝利、弘文天皇を自害させて、天武天皇 となりました。この古代最大の内乱は「壬申(じんしん)の乱」と呼ばれています。