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「二十四の瞳」 の壺井栄

今日6月23日は、『二十四の瞳』『坂道』『母のない子と子のない母と』などを著した女流作家 壺井栄(つぼい さかえ)が、1967年に亡くなった日です。

壺井栄は、1899年香川県の小豆島にしょうゆ樽職人の5女として生まれました。蔵元の倒産により、経済状態が厳しく苦労を重ねましたが、高等小学校を卒業後、およそ10年間、村の郵便局や役場に勤めました。

1925年に上京して、小豆島出身の詩人・壺井繁治と結婚しましたが、若い頃は、あまり文学には関心がなく、平凡な主婦として過ごしていたようです。
やがて、夫に刺激されて小説を書きはじめ、1938年に処女作である『大根の葉』を発表してから、『柿の木のある家』や芸術選奨文部大臣賞を受賞した『母のない子と子のない母と』『坂道』と郷土色に満ちた愛情あふれる作品を次々と書き続けました。

1952年に発表された『二十四の瞳』は、子どものための作品というより、子どもも楽しめる庶民の生活記録ともいうべき小説です。この原作に感銘した木下恵介監督は、1954年高峰秀子の主演で、叙情性あふれた作品にしあげ、小豆島の名は全国に知れわたりました。映画作品は、[反戦のメッセージを女教師と教え子のふれあいの中に描いた日本映画が誇る傑作]と絶賛されています。1954年度キネマ旬報ベストテン1位(ちなみに黒澤明監督『七人の侍』が3位)、ブルーリボン賞作品賞、毎日映画コンクール日本映画大賞、ゴールデングローブ 外国語映画賞などを受賞しました。

「二十四の瞳」のあらすじは、次の通りです。

1928年4月、師範学校を卒業したばかりの「おなご先生」大石久子は、瀬戸内海小豆島の島の岬の分教場に赴任してきました。そこに入学した12人(男子5人、女子7人)の子どもたちは、すぐに大石先生になつき、子どもたちは「大石・小石」とはやしながら、先生が大好きになります。しかし、村の人たち、とくに女房たちは、先生が自転車に乗り、洋服姿で登校するのが「ハイカラ」すぎると反感をもち、面と向かって悪口をいったりすることもありました。

村のあちこちを荒らした嵐がすぎると、長い夏休みが終わりました。大石先生は、子どもたちを連れて、道路にまで打ち上げられた石を海にもどす仕事をさせました。こんな先生のやり方も、村人たちは気に入りません。さびしさをまぎらすために、先生は子どもたちと海岸に出て「あわて床屋」や「浜辺の歌」をうたうのでした。

そんなある日、大石先生は子どもたちの作った落とし穴に落ちて、アキレス腱を切断してしまいます。先生の欠勤がつづき、子どもたちは先生に会いたくて、8キロもの道を歩いて訪ねていくのでした。親たちは、大石先生が、子どもたちにとってどんなにかけがえのない存在であることがやっとわかりました。でも先生は、自転車に乗れなくなったために、本校へ転任することになってしまいます。

やがて、大石先生は船員をしている青年と結婚。そして1932年、子どもたちは5年生になり、本校に通うようになって、大石先生と再会しました。満州事変、上海事変と、日本が軍国主義の道へ傾斜していく頃、不景気のために父親が失職し母親を失った教え子が学校にこれなくなったり、警察に「アカ」と決めつけられたり、軍人になりたいという男の子たちの姿に情熱を失い、大石先生は、彼らの卒業とともに退職を決意するのでした。

戦争は本格化し、成長した男の子たちは、次々と兵隊にとられていきます。その子たちの耳元へ「生きて帰ってくるのよ」とささやく先生でした。

長い戦争が終わった1946年、夫を戦争で失った大石先生は、岬の分教場に「おなご先生」としてふたたび教壇に復帰しました。教師となったかつての教え子の呼びかけで、生き残った教え子たちが集まり、大石先生の歓迎会が開かれました。しかし、男子5人のうち3人は戦死、1人は戦場で負傷し失明していました。女子7人のなかの1人は病死、もう1人は消息不明のまま。先生はすっかり「泣きめそ先生」になってしまいます。二十四の瞳は揃わなかったけれど、想い出だけは今も彼らの胸にしっかりと残っていたのでした……。

投稿日:2009年06月23日(火) 09:18

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)