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ワーテルローの戦い

今日6月18日は、フランス皇帝ナポレオン1世が、1815年のこの日、イギリス・オランダ連合軍およびプロイセン軍に「ワーテルローの戦い」に敗れた日です。

1789年におこった市民革命「フランス革命」後のフランスをまとめあげ、皇帝となり、ナポレオン戦争と呼ばれる戦争で全ヨーロッパを席巻したナポレオンは、フランスを代表する英雄として世界的にその名が知られています。ただし、その波乱に富んだ生涯は、必ずしも栄光に満ちたものばかりではありません。「ワーテルローの戦い」 は、ナポレオンが、最後の運命をかけた戦いでした。

ナポレオンは、1804年12月にフランス皇帝に就き、やがて1807年までにその勢力をイギリス・スウェーデンを除くヨーロッパ全土に拡げ、イタリア・ドイツ・ポーランドは属国に、オーストリア・プロイセンは従属的同盟国としました。しかし、スペインの内紛に介入しすぎたこと、ロシア遠征の失敗など苦戦が続き、1814年4月、イギリスのウェリントン将軍率いる大軍にパリまで攻めこまれて失脚、エルバ島に流されてしまいました。

ところが、ナポレオンが去った後、ルイ18世がフランス国王になったため、地位を失っていた貴族たちがもどってきて、革命でうばわれた土地を回収しはじめました。せっかく土地を手に入れた農民たちは面白くありません。戦争で苦労したことも忘れ、ナポレオンの復帰を願う声が高まりました。

1815年2月、エルバ島を脱出したナポレオンは1000名ほどの兵を連れて、ジュアン湾から上陸、パリへ進軍しました。「私は皇帝だ。わかるか」と呼びかけると、兵士も農民も「皇帝ばんざい」とさけびながら進軍に加わり、パリに近づいたころには2万にもふくれ上がったといわれています。これを知った国王は、あわててパリを逃げ出しました。

いっぽうオーストリアのウィーンでは、1814年9月から、ヨーロッパじゅうの皇帝や国王が集まって「ウィーン会議」を開いていました。フランス革命とナポレオンとの戦争が終結した後のヨーロッパ秩序再建と領土分割を目的とした会議で、1792年以前の状態に戻そうという意見が大勢を占めていました。しかし、各国の利害が衝突して数か月たっても、なかなか進行せず「会議は踊る、されど進まず」と評されていました。そんな時、ナポレオンがエルバ島を脱出し、ふたたび皇帝に返り咲いたとの報が入ると、危機感をいだいた各国に妥協が成立して、フランスに軍隊をさし向けました。

こうして6月18日、ベルギーのワーテルローで、12万4千の兵を率いるナポレオン軍と、イギリスのウェリントンが率いるイギリス・オランダ連合軍の9万5千とがぶつかり合いました。イギリスの歩兵は射撃に優れ、防衛戦にむいていて、フランス軍の砲車による猛攻をうまくかわしました。この日の朝にふった雨も影響して、戦況は一進一退です。そして午後5時頃、援軍を待っていたナポレオンでしたが、現われたのは、ブリュッヒャー率いる12万のプロイセン軍でした。これで勝負は決しました。

ナポレオンのいわゆる「百日天下」は終わり、ヨーロッパの混乱の元凶はナポレオンにあるとされ、セントヘレナ島に流されたのでした。

ナポレオンの詳しい生涯につきましては、いずみ書房ホームページに公開しているオンラインブック「せかい伝記図書館」第8巻「ナポレオン」をご覧ください。


「6月18日にあった主なできごと」

1940年 レジスタンス… ヒトラー 率いるドイツとの戦いに敗れ、首都パリが陥落すると、フランス軍将軍の ド・ゴール はイギリスへ亡命することを決断。ロンドンのBBCラジオを通じて、対独抗戦の継続と抵抗(レジスタンス)をフランス国民に呼びかけました。

1945年 ひめゆり学徒隊集団自決…太平洋戦争の末期、沖縄では一般市民を巻きこんだ地上戦が行なわれていました。この戦いで、負傷兵の看護を行なってい女子学徒隊は、この日軍に解散命令が出されため、アメリカ軍に包囲された洞窟内で、49名が集団自決しました。さらに沖縄戦終了までに、生徒123人、教師13人が亡くなりました。その霊をなぐさめ、悲劇を二度とくりかえしてはならないという願いをこめた「ひめゆりの塔」が、沖縄県糸満市に建てられています。

投稿日:2009年06月18日(木) 09:05

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)