明治維新によって260年つづいた徳川幕府が倒れ、明治新政府が誕生しました。そして、藩の土地(版)と人民(籍)をこれまで治めていた藩から、天皇に返すという「版籍奉還(はんせきほうかん)」が、1869年6月17日からはじまりました。
明治新政府の急務は、幕藩体制の解体を行い、王政復古の実質的な完成をめざすことでした。そのためには、各藩主が支配する土地と人民を、政府が支配しなくてはなりません。
当時藩に対する新政府の権力はまだ弱く、諸藩への命令も強制力のない太政官通達で行うしかありませんでした。版籍奉還の実施が急務と考えた新政府は、木戸孝允 や 大久保利通 を中心に、薩長土肥の4大藩主を説いて、1869年1月20日、その旧主に版籍(土地と人民)を政府に返還させる版籍奉還の上表文を、薩長土肥4藩主の連名で提出しました。
これをきっかけに、5月初めまでに全国262藩の版籍奉還が提出され、完全に新政府の思惑は成功しました。こうして同年6月17日から、勅許(天皇による許可)が許されることになり、藩主は藩知事に任命されました。これまでの藩の主人としての立場ではなく藩の役人としての立場にされたわけです。
しかしこれだけでは、封建体制の打破にはいたらないと考えた新政府は、藩をやめて県を置く準備をはじめていました。そして1871年8月、藩を廃止して地方統治を政府の管轄する府と県に一元化した「廃藩置県」を行ないました。(当初は藩をそのまま県に置き換えたため、現在の都道府県よりもずっと細かく3府302県でしたが、1889年になって、北海道を除く3府43県となっています)
版籍奉還は、廃藩置県までの過渡的な措置といえるのかもしれません。
「6月17日にあった主なできごと」
1972年 ウォーターゲート事件…ワシントンのウォーターゲートビルにあるアメリカ民主党本部に、盗聴器をしかけようとしていた5人組が逮捕されました。共和党のニクソン大統領が、次の大統領選に有利にするため、相手方の様子を知ろうとしたためとされ、1975年8月、ニクソンは大統領辞職に追いこまれました。