今日6月16日は、中国・唐の時代、玄宗皇帝の妃となりましたが、安禄山の反乱(安史の乱)を引き起こしたため「傾国の美女」と呼ばれる楊貴妃(ようきひ)が、756年に亡くなった日です。
絶世の美人が、はなやかな生活をおくり、やがて、あわれな死をとげるという悲劇は、エジプトの クレオパトラ 、唐の楊貴妃に代表されます。
すきとおるような白いはだ、しなやかな黒髪、かがやくように美しい楊貴妃の魅力は、玄宗皇帝の心をとりこにしました。楊貴妃は、はじめ玄宗の息子寿王瑁(じゅおうほう)の妃でしたが、玄宗の目にとまって、皇帝の妃にむかえられました。そして玄宗に愛され、宮廷の女性としては最高の位につきました。745年、楊貴妃が26歳、玄宗60歳のときです。
美しいだけでなく歌や踊りもじょうずでかしこい楊貴妃を玄宗は、ひとときもそばからはなさずにかわいがりました。玄宗は楊貴妃に夢中になり、楊貴妃の身内を高い位につかせ、権力をあたえました。楊貴妃の一族で楊国忠という男は、酒のみで、ばくちうちで、教養のとぼしい人でした。この楊国忠が皇帝をたすけて、政治をとり行う宰相にまで出世してしまったので、人びとはあきれかえりました。
玄宗は、皇帝として長いあいだりっぱな政治を行ない、文化をさかんにしてきました。しかし、楊貴妃があらわれると政治のために時間をとるのが、めんどうになってしまいました。夜おそくまで宴会をひらいて酒を飲み、ぜいたくな遊びに明けくれる毎日です。人びとは重い税金に苦しんでいるというのに、楊一族のわがままなふるまいは、とどまるところをしりません。玄宗はそのころ、政治をすべて楊国忠にまかせきってしまったので、唐の国はかたむき、宮廷はみだれきっていました。
安禄山の反乱がおこったのは、そんなときです。安禄山はもと玄宗の家来でしたが、755年、楊国忠を討つために軍隊をひきいて、都へ攻めのぼってきたのです。玄宗は、安禄山を信用していただけに、びっくりしました。平和が長くつづいて、国の守りをおこたっていたので、武器もさびついて使いものになりません。玄宗は楊貴妃とその一族をつれて、将兵に守られ、蜀の国へのがれようとしました。長安の都から西へ50キロメートルほどの馬嵬(ばかい)という村まできたときです。皇帝にしたがう将兵のあいだからも楊一族に不満の声がわきあがりました。玄宗の手ではしずめることができません。楊国忠がきりころされました。そして楊貴妃も、玄宗が命ごいをしたのもむなしく、ころされてしまいました。
玄宗はたいへん悲しみ、楊貴妃の似顔絵を、朝夕ながめ暮らしたということです。
以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで公開中)3巻「マホメット・チンギスハン・マルコポーロ」の後半に収録されている7編の「小伝」の一つ 「楊貴妃」をもとにつづりました。
「6月16日にあった主なできごと」
1924年 三民主義…現代中国の生みの親ともいわれる 孫文 は、民族・民権・民生主義を総合する「三民主義」の革命理論を、国民党の軍幹部を養成する学校の開校式で系統的な講演をし、孫文指導下の国民運動は最高潮に盛り上がりました。しかし、翌年3月「革命なおいまだ成功せず」の遺言を残し、60年の生涯を終えました。