今日6月15日は、鎌倉時代の3代目の執権となり、、武士の初めての法律『御成敗式目』(貞永式目)をこしらえ、16代続いた執権政治の基礎をきずいた北条泰時(ほうじょう やすとき)が、1242年に亡くなった日です。
泰時が、まだ9歳だったときのこと。散歩をしていた泰時の前を、ひとりの武士が馬にまたがったまま通り過ぎました。すると、このことを知った将軍 源頼朝 は、その武士を呼びつけ、馬をおりて泰時に頭をさげなかったことを、強く叱りました。ところが泰時は、いっしょうけんめいに武士をかばいました。これを見て感心したのは頼朝です。「まだ幼いのに、やさしい心をもったやつだ」。頼朝は泰時をほめ、ほうびに自分の刀をあたえました。これは、泰時が幼いときからかしこく、頼朝にたいへんかわいがられたことを伝える話です。
北条義時の長男として生まれた泰時は、北条氏の力が日の出の勢いでのびていくなかで育ちました。父義時が、祖父 北条時政 のあとをついで幕府の執権になったときは、泰時は22歳でした。
1213年、幕府にそむいた和田義盛を討って、武将泰時の名をあげ、35歳で、幕府の武士をすべてとりしまる侍所別当の位につきました。
1221年に起こった承久の乱で、さらに名を高めました。
武士の力が国の政治をあやつるほどにつよくなったことをなげいた朝廷が、鎌倉幕府をたおすために兵を起こすと、泰時は、幕府軍の総大将として朝廷軍を打ちやぶりながら東海道をおし進み、またたくまに京都を占領してしまったのです。そして、六波羅に京都を取りしまる探題をおき、朝廷も、朝廷に味方をしていた武士も、おさえてしまいました。
泰時は、急死した父のあとをついで、41歳のときに鎌倉幕府の3代目の執権職につきました。執権は、強い権力をもつ幕府最高職です。しかし、社会にむかって権力をふるうまえに、連署という、執権を助ける役職を新しくつくり、さらに、裁判や役人の任命などを会議で決めるための評定衆の制度ももうけ、幕府の政治をしっかりと進めていくための体制を固めました。
また、評定衆たちに命じて、武士の権利、義務、罰則などを51か条に定めたをつくり、武士たちの精神を正させました。この『御成敗式目』は、日本で初めての武士の法律でしたが、そのご長く、武家社会のことをとり決めるときの手本となりました。
泰時は、18年間の執権職のあいだに、そのご第16代までつづいた、北条氏の執権政治のきそをきずき、1242年に59歳で亡くなりました。人間の道理を重んじた泰時は、朝廷を攻めた罪を、そのごの正しい政治でつぐなおうとしたのだといわれています。
以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで公開中)21巻「平清盛・源頼朝・源義経」の後半に収録されている7編の「小伝」の一つ 「北条泰時」をもとにつづりました。
「6月15日にあった主なできごと」
774年 空海誕生…平安時代に中国から真言密教をもたらして真言宗を開き、高野山に金剛峰寺を建てた 空海 が、生まれました。空海は、弘法大師の名で親しまれています。
1215年 マグナカルタ成立…イギリス憲法の聖書ともいわれる「マグナカルタ」(大憲章)に、横暴だったジョン王が署名し、王も法に従うという原則が定められ、イギリス立憲政治の出発点となりました。