今日6月12日は、絵本や書籍ばかりでなく、テレビアニメや映画でおなじみの『アルプスの少女ハイジ』を著したスイスの女流児童文学者ヨハンナ・スピリが、1827年に生まれた日です。
アルプスの山やスイスの自然と聞くと、たいていの人は、アルプスの少女ハイジを思いうかべるようです。美しいアルプスの山々とヤギに囲まれ、おじいさんのもとですくすく育っていくハイジは、まさにアルプスの申し子といってもよいかもしれません。
スイスのチューリッヒに近いヒルツェル村で、医者の子として生まれたヨハンナは、ハイジと同じようにやんちゃ少女として育ち、学校はあまり好きではなかったようです。1852年、25歳のときに弁護士と結婚しチューリッヒに移り住みました。
文筆活動をはじめたのは、1870年ころからで、当時普仏戦争がおこり、たくさんの戦病者が出たことを知って、そんな不幸な人たちのために「ハイジ」のもとになった「ヘルゴーランドの少女の物語」を書いたところ好評でした。そこで、本格的に「ハイジ」の著作に取り組みはじめ、7年がかりで完成させたのが『アルプスの少女ハイジ』でした。第一部を1880年、第二部を1881年に刊行。
ところが、1884年に夫とひとり息子を相ついで亡くし、ひとりになったヨハンナは慈善活動、読書、著作、旅行に専念しました。1901年に亡くなるまでに「アルプスの少年」など50点以上の物語を出版しています。
「ハイジ」の物語の、およその内容は次の通りです。
ハイジの父親は大工でしたが、ハイジが2歳の時に亡くなり、つづいて母親も亡くなって、ハイジは、5歳になるまで母の妹のデーテに育てられました。ところがデーテは、ドイツのフランクフルトのお屋敷で家政婦として働くことになったため、山小屋にひとりで住んでいる、父方の祖父であるおじいさんに預けられることになりました。
おじいさんはがんこな変わり者で、村人とはいっさいつきあいをしません。ハイジには、このおじいさん以外の身寄りはなく、こうして、おじいさんとハイジの二人きりのくらしがはじまりました。まもなくハイジは、毎日山の上までヤギを連れてあがってくる少年ペーターと仲良しになりました。
がんこなおじいさんも、かわいいハイジと暮らしているうち、かたくなな性格もやわらいでいきました。やがて冬がきて山に雪が降り積もると、ペーターもやってきません。そんなある日、ペーターがハイジを自分の家にこないかと誘いにきました。そして、おじいさんのソリに乗せてもらって、ペーターの家に行きました。こうして、ハイジはペーターのおかあさんや、目のみえないおばあさんたちと知り合います。
子ヤギのユキちゃん、おじいさんが飼っている犬のヨーゼフやヤギのシロ・クマ……大自然に生きる動植物たちとのふれあい。厳しくも優しく、懐の深さを感じさせるアルプスの大自然。そして何よりも、いっしょに暮らすおじいさんを通じ、ハイジはさまざまなことを学び、健やかに育っていくのでした。
ハイジが8歳になったある春の日、デーテが再び山を訪れ、ハイジをフランクフルトのお屋敷に連れていき、病気の娘の遊び相手にさせようというのです。おじいさんは、烈火のごとく怒りました。しかしデーテは、こんな良い話はない、帰りたければ汽車にのればいつでも帰れると、無理やりハイジにきれいな洋服を着せて、連れ去ってしまいます。おじいさんやペーターにさよならもしないまま……。
フランクフルトでハイジを待っていたのは、足が不自由で体の弱い少女クララとゼーゼマン家の人びとでした。クララには母親はなく、父親は仕事でほとんど家にいません。ロッテンマイヤーという女性の執事が家のいっさいのきりもりをしていました。ハイジは食事の作法も知らないし、学校へ行ったこともないので、おかしなことばかりします。そして、アルプスの楽しい話の数々に、クララはハイジがお気に入りです。でも、ロッテンマイヤーはハイジに厳しいしつけや勉強を強制するばかりか、山の話題を禁止しました。クララやクララの父ゼーゼマン、クララの祖母、クララの主治医、使用人のセバスチャンなど心の支えはあったものの、ハイジはなかなかフランクフルトでの生活になじめません。やがてハイジは、アルプスでの暮らしを思うあまり夢遊病の状態となってしまいました。
ハイジを診断したクララの主治医は、ただちにハイジを山へ帰すように指示しました。こうして、ハイジは夢にまで見たアルプスのおじいさんのもとへ帰れることになりました・・・・・・。
「6月12日にあった主なできごと」
645年 大化の改新の始まり… 中大兄皇子(のちの天智天皇)や中臣鎌足(のちの 藤原鎌足 )らが、当時の最高権力者だった 蘇我入鹿 を殺害しました。このクーデターから650年ころまでの内政改革は、大化の改新とよばれています。