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歌劇 『カルメン』 のビゼー

今日6月3日は、歌劇『カルメン』『アルルの女』『真珠採り』などを作曲したフランスの作曲家ビゼーが、1875年に亡くなった日です。

ジョルジュ・ビゼーは、おさないころから、すばらしい音楽の才能をもっていました。父は声学教師、母はピアニストでした。1838年にビゼーがパリの近くで生まれたときには、すでに大音楽家になる運命をせおっていたのかもしれません。ビゼーがわずか9歳でパリの国立音楽院に合格すると、教授たちは、いっせいにさけびました。

「この子は天才かもしれない、きっと大音楽家になるぞ」

学校で学びはじめたビゼー少年は、たちまちのうちに、どんな難しい曲でも理解するようになりました。ピアノ演奏、オルガン演奏、さらに作曲などで賞をとり、19歳でローマ大賞まで受賞して音楽院を卒業すると、胸をふくらませてローマへ留学しました。

ところが、3年間のローマ留学を終えてパリへもどってきたときから、天才ビゼーの苦しみがはじまりました。

作曲家の道をあゆみはじめたビゼーは、歌劇や管弦楽曲をつぎつぎに発表しました。しかし人びとは、どの曲にも拍手をおくりません。そのころのパリでは、おもしろおかしい歌劇が流行していたので、芸術を理解する人は、あまりいませんでした。

曲が売れないビゼーは、ピアノの先生や、作曲の指導や、楽譜出版の手つだいなど、いろいろな仕事をして生活をささえました。しかし、どんなに生活に困っても、金もうけのために作曲することは、けっしてありませんでした。ビゼーにとって、音楽は芸術であって、商売ではないと考えていたからです。

ビゼーの曲が、はじめて絶賛をあびたのは、34歳のときに発表した『アルルの女』という劇の音楽でした。ところが、その2年ごに作曲した歌劇『カルメン』は、力づよい合唱と、はげしい旋律が、理解されず、評判は良くありませんでした。また、カルメンが、さいごにはホセという男に殺されるという物語の悲しさに、明るさを求めるおおくの人は顔をそむけてしまいました。

「わたしの音楽が、なぜ、わかってもらえないのか」

ビゼーは、頭をかかえて悲しみました。そして、この深い悲しみから、立ち直るひまもなく、36歳の若さで永遠の眠りについてしまいました。苦しい生活で、いためていた心臓を悪くしてしまったのです。

ビゼーは不幸でした。でも『カルメン』は、いまもなお、フランスオペラの最も人気のある代表作として、世界じゅうの人びとから喝采をあびています。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで公開中)11巻「ナイチンゲール・シュリーマン・パスツール」の後半に収録されている7編の「小伝」の一つ 「ビゼー」 をもとにつづりました。

なお、ビゼーの代表的な歌曲は、「カルメン組曲」のサイトで試聴することができます。


「6月3日にあった主なできごと」
 
1853年 黒船来航…アメリカ海軍に所属する東インド艦隊司令長官 ペリー は、日本に開国をせまる大統領の親書をたずさえて、この日4隻の黒船で江戸湾浦賀(横須賀市浦賀)に来航。「黒船あらわれる」というニュースに、幕府や江戸の町は大騒ぎとなりました。翌年、ペリーは7隻の艦隊を率いて再来航、幕府はペリーの威圧に日米和親条約を締結して、200年余り続いた鎖国が終わりをつげることになりました。

1961年 ウィーン会談…アメリカ大統領 ケネディ と、ソ連最高指導者 フルシチョフ は、オーストリアのウィーンで、東西ドイツに分裂・対立するドイツ問題についての会談を行ないました。フルシチョフが西ベルリンに西側の軍隊が駐留するのは侵略行為、侵略を阻止するためには戦争も辞さないと主張。ケネディは、どんな危険を冒しても西ベルリンを守りきると、2人の意見は完全に対立しました。これにより、東側は逃亡者を防ぐための (社会主義化した東ベルリンから、自由を求めて西ベルリンへ逃亡する人は400万人ともいわれました) 強固なベルリンの壁を建造し、ベルリンをめぐる東西間の緊張が一段と高まりました。

投稿日:2009年06月03日(水) 09:36

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)