今日5月27日は、炭疽(たんそ)菌、結核菌、コレラ菌などを発見し、細菌培養法の基礎を確立したドイツの細菌学者コッホが、1910年に亡くなった日です。コッホは、フランスの パスツール と並んで、近代細菌学の開祖と讃えられ、北里柴三郎 を育てたことでも知られています。
ロベルト・コッホは、1843年に、ドイツのハノーバーに近い町クラウシュタールで、銀鉱山の技師の子として生まれました。13人もの兄弟がいたため、暮らしは豊かではありませんでした。学校の勉強にもあまり熱心ではなく、いつも花や虫などをとってきては、顕微鏡でのぞいたり、解剖をしたりするのが好きだったようです。
当時のヨーロッパの医学界では、微生物の研究が盛んで、特にフランスのパスツールの名はドイツにも知られていて、少年コッホも、いつか微生物の研究に生涯をささげたいと考えるようになりました。
やがて、ゲッチンゲン大学を卒業後、ボルシュタインという町の衛生官になりました。その地方は、牧畜の盛んなところでしたが、農民たちを悩ませている家畜病がありました。これがはやると一夜にして牛や羊などが死んでしまうのです。家畜ばかりか、動物と接した農民や、売買をする商人たちにもうつり、運の悪い人は肺炎のような症状で死んでいきました。
コッホは、この伝染病の原因を調べようと細菌の研究をすすめ、5年後に健康な牛や羊の血液中にはない、細長い棒状をしたものを発見しました。この微生物の純粋培養をすすめて「炭疽菌」を発見、「炭疽病の原因」 という論文を著すと、やがてこの優れた研究が認められ、いちやく世界の医学界で注目を浴びることになりました。1880年、コッホはベルリンの国立衛生院正職員に抜てきされ、ベルリン大学で教鞭をとるようになって、細菌の研究に専心できるようになりました。
1882年3月24日、コッホは「結核菌を発見した」と、ベルリンの生理学会で講演しました。コッホが39歳の時です。結核は、当時のヨーロッパで病死する人の7分の1をしめるという、恐れられていた病気でした。(3月24日は「世界結核デー」として、コッホの業績を記念しています) この世界的な大発見は、世界じゅうに知れわたり、コッホを慕う若い研究者たちが、ベルリンの研究室に集まってくるようになりました。
コッホの研究は1日として休まず、翌年インドで発生したコレラがエジプトへ侵入し、南ヨーロッパを襲ったときには、インドへ向かってコレラ菌を発見するなど、その名声はとどまることをしりませんでした。これらの業績に対して、1905年には、ノーベル生理・医学賞が与えられました。
コッホの弟子といわれる人たちも、すばらしい業績をあげています。腸チフス菌を発見したガフキー、ジフテリア菌を発見したレフラー、血清療法のベーリングと化学療法エールリヒはそれぞれノーベル賞を受賞しています。そして破傷風菌の純粋培養、ペスト菌の発見者である北里柴三郎もその一人です。1908年、コッホは来日して2か月余り日本に滞在しました。北里はコッホ滞日中にひそかに毛髪を採取して保存、今も北里研究所に収められているそうです。
なお、コッホの詳しい生涯は、いずみ書房のホームページで公開しているオンラインブック・せかい伝記図書館・13巻 「コッホ」 をご覧ください。
「5月27日にあった主なできごと」
743年 墾田永年私財法…奈良時代中ごろ、聖武天皇 は、墾田(自分で新しく開墾した耕地)永年私財法を発布しました。それまでは、3代まで私有地を認める「三世一身の法」を実施していましたが、開墾がなかなか進まないため、永久に所有を認めるものでした。これにより、貴族や寺社、神社などが積極的に開墾をすすめ、「荘園」といわれる私有地が増えていきました。
1904年 日本海海戦…日露戦争中のこの日、東郷平八郎の指揮する日本海軍の連合艦隊と、ロシアの誇るバルチック艦隊が対馬海峡付近で激突。2日間にわたる戦いで、ロシア艦隊は、戦力の大半を失って壊滅。日本側の損失はわずかで、海戦史上まれな一方的勝利となりました。当時後進国と見られていた日本の勝利は世界を驚かせ「東洋の奇跡」とさえいわれました。優位に立った日本は、8月のポーツマス講和会議への道を開きました。