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勤王の武将・楠木正成

今日5月25日は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した河内の武将で、後醍醐天皇による「建武の新政」の立役者だった楠木正成(くすのき まさしげ)が、1336年に亡くなった日です。

『太平記』とよばれる軍記物語があります。鎌倉時代の終わりころから南北朝時代までのあらそいをえがいた、歴史読み物です。

この『太平記』によれば、河内国(大阪府)の武将楠木正成が、日本の歴史のなかに登場するのは、幕府をたおそうとした後醍醐天皇に、呼びよせられてからのことです。それより以前の正成については、河内の土豪であったらしいということしか、あまりわかっていません。

正成が呼びよせられたとき、後醍醐天皇 は、幕府をたおす計画が幕府にもれ、身を守るために笠置山(京都府)へのがれていました。しかし、天皇はまもなく幕府軍に捕えられました。

天皇に忠誠をちかった正成は、天皇が捕えられても、河内の赤坂城にたてこもって、幕府の大軍と戦いました。そして、場内に食糧がなくなると城に火を放って落ちのびました。

「天皇が帰ってこられるまで戦いぬくのが、わしのつとめだ」

生きながらえて、最後まで天皇に仕える決心をしたのです。 
 
その後、兵をたてなおした正成は、赤坂城をうばい返し、さらに、赤坂城の奥の山に千早城をきずきました。

1332年、幕府の数万の大軍が、千早城へ攻めてきました。千早城でむかえうったのは1000人たらずの兵です。正成は、城の上から大きい石を落とし、わら人形で敵をおどし、攻めてくる敵に火や油をそそぎかけ、知恵をはたらかせて幕府軍を城の下にくぎづけにしました。このときの正成のめざましい活躍は、幕府軍の弱さをさらけださせ、各地の武士を、討幕にむかわせるきっかけになったと、伝えられています。

1334年、ついに幕府がたおれて天皇による「建武新政」が始まり、倒幕に力をつくした正成は、河内国を支配する国主に任じられました。ところが、足利尊氏 が謀反をおこしました。

正成は、天皇を守って戦い、尊氏の軍を京都から追いだしました。しかし、数か月ご、九州で軍勢をたてなおした尊氏が、ふたたび京都へ軍をすすめてきました。おおくの武士を味方につけた大軍です。正成は、天皇に尊氏と仲直りすることをすすめました。また、戦うなら、尊氏軍を京都におびきよせて討つことを進言しました。しかし、どれも、反対されてしまいました。

1336年5月、正成は、死を覚悟して尊氏軍と湊川(兵庫県)で戦い、はなばなしく討ち死にしました。桜井(大阪府)での、子の正行との涙の別れ(国学者の落合直文作詞による軍歌「湊川・桜井決別」)は、このときの伝説です。

天皇に河内から呼びよせられて、討ち死にまでの5年、正成は、天皇につくすことだけを考えて、生きぬきました。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)22巻「親鸞・日蓮・北条時宗」の後半に収録されている7編の「小伝」の一つ 「楠木正成」をもとにつづりました。約100名の伝記に引き続き、2月末より300余名の「小伝」を公開しています。

なお、「楠木正成」を有名にしたのは、幕末の尊皇家による祭祀や、最期を遂げた湊川の神社建立、明治になって「大楠公」と呼ばれ、講談などでは天才軍師的イメージを重ねて語られたり、戦前の教科書や唱歌などで英雄的に紹介されるようになってからです。皇国史観の下で、戦死を覚悟で戦場におもむく姿を「忠臣の鑑」として讃えられたことも忘れてはなりません。戦後は、価値観の転換と中世史の研究が進むにつれ、悪党(既存支配体制へ対抗した階層)の頭としての性格が強調されるようになっています。


「5月25日にあった主なできごと」

1910年 大逆事件…信州の社会主義者・宮下太吉ら4名が明治天皇暗殺計画が発覚したとして、この日逮捕されました。この事件を口実に社会主義者、無政府主義者、思想家に対して取り調べや家宅捜索が行なわれ、20数人を逮捕。この政府主導の弾圧は「大逆事件」と呼ばれ、幸徳秋水 ら12名が処刑されました。

投稿日:2009年05月25日(月) 09:32

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)