今日5月7日は、35年かけて完成させた「古事記伝」など数多くの古代日本を探る研究書を著した、江戸時代中期の国学者・本居宣長(もとおり のりなが)が、1730年に生まれた日です。
江戸時代に大切にされた学問は、古代中国の孔子を始祖とする思考・信仰の体系ともいうべき儒教(儒学)の流れをくむ、朱子学が中心でした。儒教は、仁(人を思いやる)、義(恩に報いる)、礼(人の上下関係で守るべきこと)、智(学問に励む)、信(親睦を深める)という5つの徳性を重視しており、とくに朱子学では、なにごとも「天の道」をかかげ、身分の上下も、下の者が上の者に従うのも「天の道」といって士農工商の身分制度を正当化したり、「忠孝」をとなえて人々を統制するといったように、幕府や武士に都合のよいものでした。
江戸時代も中期になると、江戸幕府のしくみがゆらぎだし、金をにぎった商人から借金をしないと、大名や武士はやっていけないような状態で、百姓は「天の道」にそむいて、あちこちで一揆をおこすしまつでした。幕府のすすめる朱子学に疑問を持つ人たちもあらわれはじめ、中国やインドなどの学問や宗教が入ってこなかったころの、本来の日本の考え方を研究する必要があると、古い日本の書物を研究する人たちがあらわれました。その学問が「国学」です。
本居宣長もその一人で、京都で医学を学んだ後、生家のある伊勢(三重県)の松坂にもどり、『源氏物語』の講義や『日本書紀』の研究に励みました。27歳の時、『古事記』を書店で購入し、賀茂真淵(かもの まぶち) の書に出あって国学の研究に入ることになりました。1763年5月、宣長は、松阪を来訪した真淵にあい、かねてから志していた古事記の注釈について指導を願いでて『古事記』の本格的な研究に進むことを決意したのです。そして、35年の歳月を費やして『古事記』注釈の集大成『古事記伝』44巻を完成させ、契沖、荷田春満(かだの あずままろ)、賀茂真淵とともに [江戸国学の4大家] の一人といわれるようになりました。
宣長は『古事記伝』以外にも、『源氏物語』を注解した『源氏物語玉の小櫛』や随筆集『玉勝間』などがあり、日本固有の情緒「もののあはれ」が文学の本質であると提唱したことも有名です。
宣長の残した、古代日本を探る研究と、古代日本人の心を讃える考え方は、およそ500人もの弟子たちによって受けつがれ、やがて国学の道は、天皇を尊び、江戸幕府を倒そうとする尊皇討幕の精神を、武士たちにうえつけていくきっかけとなりました。そして、宣長に共鳴した平田篤胤らによって、天皇を中心とした考えが強くとなえられるようになり、それは、幕末の志士たちに大きな影響を与えました。こうして宣長の思想が、明治維新をへて、明治という新しい時代を生むことにつながっていったのです。
なお、本居宣長の詳しい生涯は、いずみ書房「せかい伝記図書館」 (オンラインブック「本居宣長」) をご覧ください。
「5月7日にあった主なできごと」
1824年 第九の初演… ベートーベン の交響曲第九番(合唱付)が、この日オーストリアのウィーンで初めて演奏されました。約80人のオーケストラと100人の合唱によるもので、すでに耳がきこえなくなっていた54歳のベートーベン自身も指揮台にたって、各楽章のテンポを指示しました。熱狂した観客はアンコールをくりかえし、3度目のアンコールを警官に止められたという逸話が残っています。この曲は日本でも「第九」として親しまれ、第4楽章は「歓喜(よろこび)の歌」という名で知られています。