今日5月1日は、世界各地の労働者が、国際的に統一して権利要求と国際連帯の活動を行なう「労働者のお祭り」の日、メーデーです。
メーデーは、1886年5月1日にアメリカの労働者たちが、シカゴを中心に労働時間を8時間にするように、ストライキを行ったことがきっかけとなりました。当時は、1日12時間から14時間労働が当たり前だったため、「8時間は仕事のために、8時間は休息のために、そして8時間は、自由な時間に」を目標に行なわれたといわれています。
そして3年後、パリで開かれた労働者の国際大会で、5月1日を労働者の国際的連帯の日とすることを決議、1890年のこの日、ヨーロッパ各国やアメリカなどで第1回国際メーデーが実施されました。それ以後も、労働者の権利を主張する運動をはぐくみ、それぞれの国の労働者がその時々の要求を掲げ、団結と連帯の力を示す日として継続・発展させてきました。
日本でのメーデーは、1920年5月2日の日曜日に東京・上野公園で、およそ1万人の労働者が「八時間労働制の実施」「失業の防止」「最低賃金法の制定」などを訴えたのがはじまりで、翌年からは5月1日となりました。
しかし、1936年におきた二・二六事件によって戒厳令がしかれた後、メーデー開催も禁止され、やがて戦争が激化するにともなって開かれることはなく、1946年「働けるだけ食わせろ」をスローガンに掲げたメーデーが、11年ぶりに盛大に開かれました。
1951年のメーデーは、サンフランシスコ講和条約締結を間近にひかえ、反対運動の盛り上がりを恐れた政府とGHQは、広場の使用を禁止したため、総評は中央メーデーを中止。一方で統一メーデー促進会は「全面講和をかちとれ」「再軍備に反対せよ」のスローガンを掲げて、芝公園で実質的な中央メーデーを開催しました。
日本の主権回復後に行われた1952年のメーデーは、サンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約(安保)への抗議も主張に含まれました。その際、皇居前広場へ向かおうとしたデモ隊の一部が警官隊と激しく衝突し、死者2名、重軽傷者740名以上を出す大惨事となりました(血のメーデー事件)。
その後、労働組合の組織対立の激化や、この日前後のゴールデンウィークで長期休暇を取る人たちが増え、労働組合活動が低調になって、参加者数が減少しています。
しかし、現在でも、全国各地でデモ行進や集会が行なわれ、家族連れで参加する人たちも多く見うけられます。