今日4月27日は、古代ギリシアの哲学者ソクラテスが、紀元前399年に毒を飲んで亡くなった日です。古代ギリシアに大きく花開いた文化は、ソクラテス、プラトン、アリストテレスらの大哲学者を輩出させたことが、まず第1に特記されます。
ソクラテスは、彫刻家と助産婦の子として、紀元前470年ころギリシアのアテネに生まれました。父は彫刻家、母は助産婦でした。
当時のギリシアは、ポリスという小さな都市国家の寄り集まりでした。地中海沿岸に植民地をつくりながら発展させ、後のヨーロッパ文明の基礎ともいうべきすばらしい文化を打ち立てたのです。その中心がアテネでした。おおらかで明快な美しさをもつ建築や彫刻群、さらに文学、天文学、航海術、スポーツなど、あらゆる人類の文化が、古代ギリシアの花園にいっせいに咲き誇ったのです。
ソクラテスは、その自由な空気をすいながら、はじめは、父の仕事をついで彫刻家になることを考えました。そのうち、詩人か音楽家になることを夢にいだいたり、アテネに集まる外国の学者から地球や宇宙の話を聞いて、科学に夢中になったこともありました。
ところが、ある学者は地球は丸いといい、ある学者は平らだというのを聞いているうちに、真実がひとつなら、多くの学者はうそを信じていると考えるようになり、科学を学ぶ心をすて、哲学を学ぶようなりました。
人間の心の世界のことを考える学問を追究するうち、当時ソフィストと名のる学者たちが、苦しみや悩みもつ人たちに、お金をもらって、さまざまなことを教えて生活をたてることに疑問を感じるようになりました。ソクラテスは、人間の正しい生きかたを、どこまでも追究していくことこそ、真理だと考えたのです。
そして、アテネの街角に立ち、若者にさまざまな質問を投げかけ、若者の信じる考えを正しいものと仮定しながらさらに質問を続け、自分の説の間違いを若者自身に気づかせる教育法をあみだしました。これは「産婆術」ともいわれ、まさに「引き出す」という教育の原点になっています。
ソクラテス自身は、著作を行わなかったため、その思想は弟子のプラトンや歴史家のクセノポン、プラトンの弟子のアリストテレスらの著作を通じて紹介されています。
ある時ソクラテスは、ソフィストの考えを向上させるたいと対話を行なったところ、ソフィストたちがあまりに「常識」に執着していたため、「知っているといいながら、実は知らない」ということを暴くことになりました。
恥をかかされたソフィストは「ソクラテスは国家が信じる神々とは異なる神々を信じ、若者を堕落させた」という理由で、ソクラテスは公開裁判にかけられてしまいました。ソクラテスは弁明を行い、自説を曲げたり自身の行動を反省したりすることをいっさいしなかったため、結果的に死刑をいい渡されてしまったのです。
プラトン(クリトン)らによって逃亡・亡命も勧められました。またソクラテスに同情する牢番も、ソクラテスがいつでも逃げられるよう鉄格子の鍵を開けていましたが、これも拒否しました。当時は死刑を命じられても、牢番にわずかな額を握らせるだけで脱獄可能だったのです。しかし、自身の知への愛(フィロソフィア)を貫いて、死を恐れずに毒を飲む道を選んだのです。
このてんまつは、プラトンの著作「ソクラテスの弁明」や「クリトン」などに詳しく書かれています。オンライン図書館「青空文庫」には 「クリトン」 の全文が紹介されています。説得力のあるその考え方と迫力は、2千数百年たった今も、まったく失われていません。
なお、ソクラテスの詳しい生涯は、いずみ書房「せかい伝記図書館」 (オンラインブック「ソクラテス」) をご覧ください。