今日4月24日は、江戸時代・元禄期の大商人で、紀伊国屋文左衛門(きのくにや ぶんざえもん)が、1718年に亡くなったといわれている日です。
17世紀から18世紀にかけて、産業がさかんになるにつれて、商業が大きく発展し、大商人といわれる人たちが各地に現われました。紀伊国屋文左衛門も、そのころに活躍した豪商のひとりです。
文左衛門がいつどこで生まれ、どのように育ち、いつ江戸に出てきたのかほとんどわかっていません。しかし、文左衛門の隆盛のきっかけとなったといわれるミカン船の話は有名です。
ある年の暮れ、海の荒れる日がつづいて、紀州から江戸へわたる船がでませんでした。そのため、紀州のミカンは値が下がり、反対に江戸ではどんどん値上がりしてゆきました。
この機会をのがさず、すぐ行動したのが文左衛門です。紀州のミカンをできるだけ安く買い集めると、船いっぱいにつみこみました。そして、大金を出して船のりをやとい、荒れくるう海にのりだしました。命がけで江戸へ着くと、待ちかまえていた商人たちによってミカンの値はつりあげられ、たちまちのうちに売りつくされました。文左衛門は、もうけたお金でこんどは、塩ザケを買いこみました。そして関西に運んで大きな利益をあげたのです。
この話は、事実かどうかわかりませんが、大金を手にした文左衛門は、1687年江戸の八丁堀で材木問屋をはじめました。そのころの江戸は「火事とけんかは江戸の花」といわれたほど火事がおおく、しばしば大火にみまわれました。火事のあとは、焼けた家を建てなおす材木が必要です。ここに目をつけた文左衛門は、大火があると、まだ火が消えないうちに江戸を立って木曾にむかいました。そして、大量の材木を買いしめると、焼け野原となった江戸へ材木の山を送りこんだのです。もちろん材木は、とぶように売れました。
そのご文左衛門は、将軍 徳川綱吉 のお気に入りの老中柳沢吉保にとりいり、材木御用達となって、幕府の建築用材を一手にひきうける身分になりました。1698年には、上野寛永寺の根本中堂の造営をうけおい、50万両をもうけるなど、巨富をつかんでいったのです。しかし、そのうち文左衛門の浪費がはげしくなり、豆まきの豆のかわりに小粒金をまいたり、遊里吉原や芝居などにお金を湯水のように使うようになりました。
やがて、政治に 新井白石 が現われ、役人と商人の不正取りひきをきびしく取りしまるようになりました。文左衛門はみるみる落ちぶれ、家屋敷も売りはらい、みじめなくらしに追いやられたようですが、その生き方に、剛気な人の姿を見ることができます。
「4月24日にあった主なできごと」
1951年 桜木町事故…京浜東北線の電車が、桜木町駅到着寸前に切れた架線にふれて1・2両目が炎上、木製屋根と旧式の3段開き窓のため乗客は逃げ切れず、死者106名、重傷者92名を出す大事故となりました。この事故から、電車の鋼鉄化が急速に促進されました。
1955年 アジア・アフリカ会議…インド ネルー 首相、インドネシア スカルノ 大統領、中国周恩来首相、エジプト ナセル 大統領が中心となって、インドネシアのバンドンで「アジア・アフリカ会議」開催され、この日反植民地主義・民族主義・平和共存など世界平和と協力の推進に関する宣言・平和十原則を採択、アメリカ(西側諸国)、ソビエト(東側諸国)のどちらの陣営にも属さない、いわゆる第三世界の存在を確立しました。