今日3月18日は、飛鳥時代の歌人で、山部赤人らとともに歌聖と称えられている柿本人麻呂が、724年に亡くなったとされる日(柿本神社記録)です。
柿本人麻呂は『万葉集』最高の歌人です。しかし、額田王と同じように、生まれた年も亡くなった年もわからず、その生涯は『万葉集』の歌からおしはかるよりしかたがありません。
7世紀の終わりから8世紀のはじめにかけて、天武、持統、文武の3人の天皇につかえた人麻呂は、よろこびの歌、悲しみの歌、なぐさめの歌などをつくって天皇や神にささげる、宮廷歌人のひとりだったのだろうと伝えられています。それも、あまり身分の高くない宮廷歌人だったようです。
人麻呂は、天皇を敬う歌や、天皇中心の国家をたたえる歌をおおく作りましたが、とくにすぐれていたのは、皇族の死を悲しんでつくった挽歌でした。686年から696年までのあいだに、大津皇子、草壁皇子、高市皇子という、天武天皇の3人の皇子の死を次つぎにみてきた人麻呂は、人間のいのちのはかなさを、だれよりも深く感じました。そして、宮廷歌人のしごととしてではなく、死をおそれるすなおなひとりの人間として、悲しみがほとばしる挽歌を作ったのです。
人麻呂はさらに、たとえ死者との別れではなくても、めぐりあった人との別れを心から惜しみ、人を恋いしたう相聞歌も、すぐれたものをたくさん作りました。
小竹(ささ)の葉は み山もさやに乱れども われは妹おもふ 別れ来ぬれば
(山道を歩いて行くと、吹きぬけていく風のなかで、ささの葉が音をたててさわいでいるけれども、わたしは、ただひたすらに、別れてきた妻のことだけを思いつづけている)という、この歌には、旅にでた人麻呂が、家にひとり残してきた妻を思うやさしさにあふれています。
人麻呂は、40歳をすぎたころから役人として山陰や九州へ旅をするようになり、やがて、石見国(島根県)で奈良の都をしのびながら、さみしく世を去ったということです。50歳くらいだったのだろうといわれています。
『万葉集』におさめられている人麻呂の歌は、70首ちかい短歌と18首の長歌ですが、このほかに『人麻呂歌集』の歌として出されているものが数百首あります。とくに長歌に、深い感情のこもった名歌がおおく、また、五七音をくりかえし、さいごを五七七と結び、反歌をそえるという長歌の形は、人麻呂によって完成されました。
人麻呂は、ものを深くみつめて、心の底からわきでた美しいことばで、万葉の世界をきずきあげたのです。
以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)19巻「聖徳太子・中大兄皇子」の後半に収録されている14編の「小伝」の一つ 「柿本人麻呂」 をもとにつづりました。約100名の伝記に引き続き、2月末より300余名の「小伝」を公開しています。
なお、和歌のネット図書館ともいうべき「千人万首」(よよのうたびと・現在923名の作品9000余首を掲載) では、人麻呂の代表作品 が注釈付で紹介されています。
「3月18日にあった主なできごと」
1871年 パリ・コミューン…普仏戦争の敗戦後のこの日、パリに労働者の代表たちによる「社会・人民共和国」いわゆるパリ・コミューンが組織されました。正式成立は3月29日で、5月28日に政府軍の反撃にあってわずか72日間でつぶれてしまいましたが、民衆が蜂起して誕生した革命政府であること、世界初の労働者階級の自治による民主国家で、短期間のうちに実行に移された革新的な政策(教会と国家の政教分離、無償の義務教育、女性参政権など)は、その後の世界に多くの影響をあたえました。