今日2月17日は、『歌の本』などの抒情詩をはじめ、多くの旅行体験をもとにした紀行、批評精神に裏づけされた風刺詩や時事詩を発表したドイツの文学者ハイネが、1856年に亡くなった日です。
ドイツの詩人ハインリヒ・ハイネは、少年時代から、人間の自由を愛しながら成長しました。1797年にユダヤ人の子として生まれ、生まれたときから人種差別を受ける悲しみを背負っていたからです。また、故郷デュッセルドルフの町がナポレオンの軍隊に占領され、輝かしいフランス革命の「自由・平等・博愛」の思想につつまれて育ったからです。
ハイネは、父や叔父のいいつけで、初めは、商人の道へ入りました。しかし失敗に終わり、つぎには、法律を学ぶために大学へ進み、やがてはジャーナリストを志すようになりました。
詩人ハイネの花が開きはじめたのは、このころからです。ふたりのいとことの恋にやぶれて、その悲しみを叙情詩につづり、ハルツ地方やイギリス、イタリアをまわって、その思い出をみずみずしい詩や旅行記に記しました。
30歳のとき詩集『歌の本』を発表すると、自分の心をすなおにうたいあげた叙情詩人として、広く、人びとに愛されるようになりました。のちに、シューマン、ジルヒャー、シューベルトらによって作曲された『美しい5月』『ローレライ』『海辺にて』などが収められているのも、この詩集です。
叙情詩をつづるいっぽう、人間の自由を愛する心を育ててきたハイネは、1830年にフランスで7月革命がおこると、つぎの年、ひとつの決意をしてパリへ亡命しました。
「フランスは自由主義国家へ生まれ変わろうとしている。ドイツも、早く、古い封建政治をうちくずさなければだめだ」
ハイネは、祖国ドイツを生まれ変わらせるために、ペンの力で闘うことを決心したのです。祖国を愛していたからです。
住まいをパリに定めたハイネは、フランスの芸術家、政治家と交わりながらペンをとり、フランス人には、ドイツのほんとうの文化をつたえました。そして、祖国ドイツへは、フランスの芸術や社会のようすを書き送り、ドイツの人びとも自由のために立ちあがらなければいけないことを、説きつづけました。このため1835年には、ドイツ政府から、ハイネの書いた本はすべて、国内での発行を禁止されてしまいました。
しかし、ハイネは、ペンを捨てませんでした。47歳のときには革命をうたった長編詩『ドイツ冬物語』を著し、そのご脊髄病で病床にくぎづけになってからも、物語詩集『ロマンツェーロ』を完成させました。いま、愛と革命の詩人ハイネは、名曲『ローレライ』を口ずさむドイツの人びとの心に、美しく生きています。そして、世界の人びとの心にも……。
以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)9巻「スチーブンソン・シューベルト・アンデルセン」の後半に収録されている7編の「小伝」の一つ 「ハイネ」 をもとにつづりました。約100名の伝記に引き続き、今週より、300余名の「小伝」を公開しました。
なお、参考までにハイネの有名な詩にジルヒャーが作曲、今も歌われる「ローレライ」(近藤朔風訳詞) を掲げます。
1. なじかは知らねど 心わびて、
昔の伝説(つたえ)は そぞろ身にしむ。
寥しく暮れゆく ラインの流
入日に山々 あかく映ゆる。
2. 美(うるわ)し少女(おとめ)の 巖頭(いわお)に立ちて、
黄金の櫛とり 髪のみだれを、
梳きつつ口吟む 歌の声の、
神怪(くすし)き魔力(ちから)に 魂もまよう。
3. 漕ぎゆく舟びと 歌に憧れ、
岩根も見やらず 仰げばやがて、
浪間に沈むる ひとも舟も、
神怪き魔歌(まがうた) 謡うローレライ。
「2月17日にあった主なできごと」
1925年 ツタンカーメン発掘…イギリスの考古学者カーターはこの日、3000年も昔の古代エジプトのファラオ・ツタンカーメンの、235kgもの黄金の棺に眠るミイラを発見しました。
1946年 金融緊急措置令…第2次世界大戦後の急激なインフレを抑えるため、金融緊急措置令を施行。これにより、銀行預金は封鎖され、従来の紙幣(旧円)は強制的に銀行へ預金させる一方、旧円の市場流通を停止、新紙幣(新円)との交換を月に世帯主300円、家族一人月100円以内に制限させるなどの金融制限策を実施しました。しかし、この効果は一時的で、1950年ころの物価は戦前の200倍にも達したといわれています。当時国民は、公定価格の30〜40倍ものヤミ価格で生活必需品を買っていました。ヤミでは買わないとの信念を貫いた東京地裁の判事が、栄養失調で死亡したニュースも伝えられています。