今日2月13日は、幕末には幕臣、明治から大正初期にかけて大蔵官僚、実業家として活躍した渋沢栄一が、1840年に生まれた日です。第一国立銀行、王子製紙、日本郵船、東京証券取引所や一橋大学、日本女子大学などたくさんの企業や学校の設立や経営に関わりました。
明治になって、資本主義の道を歩みだした日本は、わずか60年あまりの間に、世界経済に追いつき、肩をならべるまでに発展しました。その日本経済界のために一生をささげて「近代日本の実業界の父」といわれた人が渋沢栄一です。
栄一は、1840年、武蔵国(埼玉県)の豊かな農家に生まれました。父は農業だけでなく、藍玉(染料)の製造販売や、質屋の経営などを手広くおこなっていました。栄一は学問や武芸の好きな少年でしたが、14歳のころから、藍玉のとりひきなどの家業に興味をおぼえ、商人としての才覚をみせはじめました。しかし、17歳のとき代官の横暴にあい、武家支配にいきどおりを感じて、やがて討幕運動に加わるようになりました。
24歳のとき、京都にのぼった栄一は、一橋家(徳川御三卿の1つ)の重臣から、内部から改革することの大切さを説かれて一転して一橋慶喜に仕え、一橋家の財政改善のためにはたらきました。2年あまりのちに慶喜が、徳川15代将軍になると、こんどは幕府に仕えることになりました。
栄一が27歳のとき、思いがけずヨーロッパへ行く機会にめぐまれました。パリで万国博覧会が開かれ、栄一は慶喜の弟昭武のおともをしていくことになったのです。この旅が、栄一の人生を決定づけたといってよいでしょう。銀行や株式による経済のしくみのすばらしさなど、栄一にはびっくりすることばかりでした。近代文明が、産業の活発化によって進歩することを、はっきり知ったのです。
1868年(明治1年)秋、帰国したときはすでに徳川幕府はなく、栄一は慶喜のすむ静岡にいって、日本で最初の株式会社をつくりました。そのご、大蔵省の役人としてまねかれ、税金制度や貨幣の発行などについて、おおくの仕事をしましたが、他の役人と意見があわず、3年でやめ、それから実業家としての道ひと筋に歩みつづけました。
第一に着手した仕事は、日本で最初の銀行、第一国立銀行の設立でした。それからの栄一は、抄紙会社(のちの王子製紙)をはじめ、次つぎに企業の経営にのりだしました。東京海上保険、共同運輸(のちの日本郵船)、大阪紡績(のちの東洋紡)、帝国ホテル、札幌麦酒、石川島造船所など、その数は500以上にものぼります。さらに、慈恵会、東京養育院などの病院や、東京高等商業(のちの一橋大学)、日本女子大学などの学校の設立や発展にも力をつくして、1931年91歳で亡くなりました。
栄一の生涯は、まさに日本の実業界の発展史でもありました。
以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)32巻「伊藤博文・田中正造・北里柴三郎」の後半に収録されている7編の「小伝」をもとにつづりました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。
「2月13日にあった主なできごと」
1689年 権利宣言の承認…ジェイムズ2世の専制からイングランドを救ったオレンジ公ウィリアムと妻のアンは、即位の前に議会の立法権、課税の同意権、討論の自由などの盛りこまれた「権利宣言」を読み上げ、ウィリアム3世とメアリー2世として共同統治する文書に署名。「権利宣言」は同年12月に「権利章典」として立法化され発布されました。ジェイムズ2世の追放から二人の即位までのクーデターが無血だったことから「名誉革命」ともいわれ、「権利章典」は大憲章(マグナカルタ)・権利請願とともにイギリス国家における基本法として位置づけられています。
1875年 平民苗字必称義務令の布告…1870年9月に農民や商人など武士以外の平民も苗字(姓)をつけるようにという布告が出ていましたが、まだつけていない者が多くいたため、この日必ずつけなくてはいけないという布告が出されました。そのため、文字も書けない人たちは、大変苦労しながら苗字を考えたといわれています。