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世界に誇る物理学者・半太郎と光太郎

今日2月12日は、明治から昭和にかけて、日本の科学の基礎をきずき、長岡半太郎と並んでその力を世界に示した物理学者・本多光太郎が、1954年に亡くなった日です。

長岡半太郎は、明治時代を迎える3年まえに肥前国(長崎県)で生まれ、やがて父が明治政府の役人になると、家族とともに東京へでて17歳で東京大学(のち帝国大学から東京帝国大学へ改名)の物理学科へ入学しました。

そのころは科学の世界にあこがれる若者は少なく、卒業するとき物理学科の学生は半太郎ひとりでしたが、半太郎はそのまま大学院へ進みました。とりくんだのは地球の磁気の研究でした。

28歳のときにドイツへ渡り、3年のちに帰国すると帝国大学の教授になり、地球物理学の研究を始めました。また、本多光太郎や寺田寅彦ら、若い科学者の指導にもあたりました。このころ日本の科学の指導者は、まだ数えるほどだったのです。

半太郎は、1900年に、磁気歪という磁力の変化の現象を発表して、さらに1903年には 「まわりに環をもつ土星のようだ」 という原子のしくみを発表、日本の物理学者長岡半太郎の名を世界に広めました。そののちの半太郎は、電波や光学の研究もつづけ、科学の真理を愛し、日本の科学を育てることに力をつくしました。

本多光太郎は、半太郎よりも5年あとに愛知県の農家で生まれ、小学生のころは農業の手伝いに明け暮れましたが、やがて東京へでて、第一高等中学校から東京帝国大学へ進みました。

初めは、大学で農業を学ぶつもりでした。ところが、物理学者山川健次郎の 「すべての自然科学の基礎は物理学にある」 ということばにうたれて、物理学の道をえらびました。

大学院時代に長岡半太郎の指導を受け、卒業ごも磁気歪の研究をつづけましたが、37歳のときにヨーロッパの国ぐにへ留学して、さまざまな金属をつくりだす冶金学を学びました。そして41歳で帰国ごは、東北帝国大学理科大学の教授になり、日曜も祭日も実験室にとじこもって、金属の研究にうちこみました。

1917年に強力な磁力をもつ鋼鉄のKS鋼、1933年には、さらに強力な新KS鋼が日本で発明され、世界の鉄鋼会社をおどろかせました。光太郎が、長いあいだの研究をみのらせたのです。

光太郎は、そのごも金属の研究ひとすじの道を歩みつづけ、その長い道のりのなかで、日本の科学者をたくさん育てました。なお、無類の実験好きとして知られ、自身の結婚式に姿を現らさないため、よもやと思って大学の研究室へ探しに行ったところ、実験をしていたという逸話が残されています。

1937年の春、日本の文化の発達に偉大な功績をあげた9名に第1回の文化勲章がおくられましたが、このとき、72歳の半太郎と67歳の光太郎の胸にも、勲章が輝きました。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)33巻「牧野富太郎・豊田佐吉」の後半に収録されている14編の「小伝」のひとつ「長岡半太郎と本多光太郎」をもとにつづりました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。

「2月12日にあった主なできごと」

1603年 江戸幕府…1600年の関が原の戦いで勝利して全国を制覇した徳川家康は、この日征夷大将軍に任命され、江戸幕府が開かれました。

1912年 清朝の滅亡…中国清朝最期の皇帝である7歳の宣統帝・溥儀(ふぎ)が退位して、初代の太祖から12世297年にわたる清王朝の統治が終わりました。なお、溥儀は20年後、日本軍に満州国皇帝にされ、はかない役割をになわされました。その生涯は1987年公開の映画「ラストエンペラー」に描かれ、第60回アカデミー賞作品賞を受賞しています。

投稿日:2009年02月12日(木) 09:06

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)