今日2月10日は、江戸時代の末期に「天保の改革」を指導したことで知られる政治家・水野忠邦(みずの ただくに)が、1851年に亡くなった日です。
1794年、唐津藩主水野忠光の次男として生まれた忠邦は、17歳で藩主になりました。忠邦はかねがね、幕府の政治に不満を持ち、自分が老中になって政治をやりなおすならば、力の弱まった幕府の息をふきかえすことができると考えていました。しかし、唐津藩主は、貿易港の長崎を守る大役があって、両方やるわけにはいきませんでした。そこで忠邦は、唐津藩から遠州(静岡県)浜松藩に国替えすることを将軍にねがい出ようと考え、重臣たちに話しました。
「殿、お国替えなど、めっそうもございませぬぞ」
家老の代表が、はねつけるようにそういうと、ほかの家来たちもいっせいに同調しました。国替えになると、収入が20万石から、6万石に減ってしまうからです。
「私は藩主だ。藩主の命令がいやなら、荷物をまとめて去れ」
忠邦の決然とした態度に、家来たちはみなおしだまりました。
やがて浜松に移り、老中になった忠邦は、家慶が12代将軍になると、念願の大改革にとりかかりました。
この当時は、家康が幕府をひらいてから200年あまりもたち、商業の発達にひきかえ、武士階級の力は次第におとろえていました。長い太平の時代がつづいて、武士たちは剣術よりも、うたやおどりなど芸ごとに夢中になり、幕府も大名たちも、商人から借金をかかえて苦しんでいるようなありさまでした。そこへ追いうちをかけるように「天保の大ききん」がおこり、各地で一揆があれくるって、世の中はたいへん乱れていました。
「このままでは幕府があぶない」そう考えた忠邦は、自分と意見のあわない役人や、役に立たないと思われる役人をたくさんやめさせたのを手はじめに、数かずの改革を開始しました。
農村から江戸にでてきている農民に、村にかえって農業にはげむように命じた「人返し令」。商品の独占とりひきをやめさせて物価の安定をはかった「株仲間解散令」。また、倹約令を出して、大名から農民にいたるまでこれを守らせ、剣術をすすめ、芸事を禁ずるなど、次つぎに改革をおしすすめました。
しかし、あまりのきびしい取りしまりのため、幕府や大名たちのなかでも忠邦に反対する人たちがおおくなり、改革を開始してからわずか2年4か月で、忠邦は老中の地位を追われてしまいました。そのご忠邦は、出羽国(山形県)に国替えさせられ、56歳でさびしく世を去りました。
以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)30巻「渡辺崋山・勝海舟・西郷隆盛」の後半に収録されている7名の「小伝」をもとにつづりました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。
「2月10日にあった主なできごと」
1763年 イギリスがカナダを獲得…イギリスとフランスとの間で争われた植民地7年戦争が終わり、パリ条約が結ばれて、フランスはカナダをはじめ、ミシシッピー川以東のルイジアナをイギリスに譲渡し、北アメリカの領土を失いました。英国はすでにインドのフランス植民地も得て、いわゆる「太陽の没しない大帝国」を築き上げました。
1904年 日露戦争宣戦布告…すでに2月8日の夜、日本海軍は旅順港外のロシア艦隊を攻撃、陸軍は仁川に上陸していましたが、この日宣戦を布告、正式に日露戦争が始まりました。翌年6月ポーツマスでの講和会議が開かれるまで1年4か月にわたる戦争は、日本にとっても困難な戦いでした。