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平民宰相・原敬

今日2月9日は、日本で初めて政党内閣を組織し、爵位の辞退を表明したため平民宰相といわれた明治の政治家・原敬(はら たかし)が、1856年に生まれた日です。

政治家原敬は、盛岡藩(岩手県)の武士の家に生まれました。父は敬が9歳のときに死にましたが、祖父は藩の家老をつとめた家がらでした。しかし、盛岡藩は、明治維新に幕府がわについて朝廷軍と戦ったため、朝敵とよばれるようになり、明治時代をむかえたころには、原家も落ちぶれてしまっていました。

家は落ちぶれても自分の希望だけは失わなかった敬は、15歳で東京へでました。そして、まず神学塾でキリスト教を信仰しながらフランス語を学び、やがて、政治家への道をめざして司法省法学校へ進みました。

ところが、法学校では校長と争って3年めに退学させられ、そのごは新聞記者、役人、外交官などの道を歩み、40歳をすぎたときには大阪毎日新聞の社長になっていました。

「新聞人から代議士へ、代議士から大臣へ……」

敬は、心に、このように決めていたということです。

1900年、伊藤博文を中心にして立憲政友会という政党が結成されると、新聞社を去って党へ入り、数か月ごには早くも逓信大臣に任命され、2年ごには衆議院議員選挙に当選して、自分のこころざしどおりに政治家へのスタートをきりました。

そのごの敬は、人をおそれないすばらしい政治力で、つねに政友会をまとめ、大正時代の中ごろには、ついに大きな夢を果たしました。西園寺公望内閣、山本権兵衛内閣で内務大臣をつとめたのち、1914年には政友会の総裁となり、つづいて1918年に、原内閣を誕生させたのです。

「むかしの薩摩藩、長州藩などで力をもっていたものや、貴族院の貴族たちにあやつられる政治ではだめだ」

敬は、政党の力による、純粋な議会政治をのぞみました。そこで、内閣は、外務、陸軍、海軍の3大臣をのぞいて、すべて政友党の政治家たちで固めました。また、内閣が歩み始めると、衆議院や政党をおさえるためにおかれていた貴族院の、頭の古い貴族たちの考えを少しずつ改めさせ、政党の力を強いものにしていきました。

じっさいの政治では、国防、教育、産業、交通などに力を入れました。しかし、おおくは、民衆のためよりも国と資本家の利益にむすびついたものでした。民主的な選挙がおこなわれるための普通選挙の実施などには反対しました。そのため、原内閣をひはんする人びとが現われ、1921年11月4日、65歳の敬は18歳の少年に、東京駅で暗殺されてしまいました。

政党政治をうちたてたことが、歴史に残した偉業でした。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)33巻「牧野富太郎・豊田佐吉」の後半に収録されている14名の「小伝」をもとにつづりました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。

「2月9日にあった主なできごと」

1152年 源頼朝が捕われる…保元の乱から3年、政治権力をめぐる争いは、平清盛方と源義朝方に分れて戦う平治の乱となりました。この日初陣の13歳の頼朝は、父義朝とともに東国へのがれる途中捕われの身となり、伊豆の小島で流人の生活がはじまりました。

1956年 原水爆実験中止決議…第2次世界大戦で広島・長崎に原爆被害を受けたわが国は、1954年南太平洋にあるビキニ環礁で行なわれたアメリカ水爆実験で、第5福竜丸が死の灰をあび、久保山愛吉さんの死亡したビキニ事件がおこりました。これがきっかけとなって、原水爆禁止運動がさかんとなり、国会はこの日原水爆実験中止を決議、アメリカ、ソ連、イギリス政府に実験中止の申し入れをしました。

投稿日:2009年02月09日(月) 09:02

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)