今日1月30日は、非暴力・不服従主義の提唱者で、マハトマ(偉大なる魂)とよばれ、インドを独立に導いたガンジーが、1948年に暗殺された日です。
1869年、裕福な商人の家に生まれたガンジーは、13歳で、後に共にインド独立のためにたたかったカストルバイと結婚、19歳のときイギリスに留学して法律を学んで弁護士の資格をとりました。1893年、イギリス領南アフリカにわたり、外国商社の訴訟問題にかかわるうちに、人種差別の問題に何度も直面しました。この時の経験は1915年にインドに帰国してからの民族運動に生かされています。
1917年、第一次世界大戦が起こると、イギリスは将来の自治を約束して、インドの人たちに協力を求めました。ガンジーはこの約束を信じてインド人へ軍への志願を呼びかける運動を行いました。ところが、戦争がイギリスの勝利に終わっても、インド人が期待した自治は進行しません。イギリスへの協力が独立へとつながらないと感じたガンジーは、イギリス製の綿製品ではなく、伝統的なインドの綿製品を着用することを呼びかけるなど、不買運動を行ったため、何度も投獄されました。しかし、ガンジーはいっさいの武力闘争を否定し、非暴力・不服従の姿勢を貫いて、断食闘争などを続けました。
この静かな抵抗運動の広がりにイギリスもとうとう、第2次世界大戦終了後インドの独立を認めざるを得なくなります。ところが、今度はヒンズー教とイスラム教の宗教的な対立から、インドとパキスタン(現在のパキスタン及びバングラデシュ)の2つに分裂したまま独立することになってしまいました。この宗教対立の嵐が全土に吹き荒れたため、ガンジーは何度となく断食するなど、身をていして宗教の融和と寛容を訴え、両国の統一に力をそそぎました。しかし、ヒンズー原理主義者からはムスリムに対して譲歩しすぎるとして敵対視されました。そして、1948年のこの日、ガンジーはニューデリーで、ヒンズー教過激派の銃弾に倒れてしまったのです。
ガンジーの詳しい生涯につきましては、いずみ書房のホームページ・オンラインブック(「せかい伝記図書館」を公開中) の 「ガンジー」 を、ぜひご覧ください。約100名の伝記の一人として紹介しています。
「1月30日にあった主なできごと」
1649年 チャールズ1世処刑…1628年、イングランド議会から国王チャールズ1世に対して出された「権利の請願」は、大憲章(マグナカルタ)・権利章典とともにイギリス国家における基本法として位置づけられていますが、チャールズ1世はこれを無視して議会と対立。3日前に公敵として死刑の宣告を受けた国王が、この日処刑されました。こうして議会が国政に参加する権利を確立した「清教徒(ピュリタン)革命」が終結しました。
1902年 日英同盟…清(中国)や韓国に進出しようとするロシアに対抗するため、この日ロンドンで「日英同盟」が結ばれました。イギリスの清、日本の清や韓国の権益を相互に認め、一方が戦争になったときは中立を守り、そこに第三国が参入したときは援助しあうというものでした。当時のイギリスは、アフリカでの戦争に消耗しており、ロシアの南下をおさえる「憲兵」の役割を日本に期待したもので、日本は日露戦争への道をたどりはじめました。