今日1月23日は、鎌倉幕府を倒すために失敗を重ねながらも、新田義貞、足利尊氏らの協力で成功、しかし尊氏の反乱にあうなど、波乱の生涯をおくった後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が、1337年、京都を脱出し吉野・金峰山へ入山した日で、南北朝対立の始まりとされています。
後醍醐天皇は、1318年に、30歳で即位しました。このとき鎌倉幕府の実権をにぎっていたのは、執権職の北条高時です。
幼いころから激しい気性の持ち主だった天皇は、幕府が朝廷のことにまで口をだすのが、不満でしかたがありませんでした。平安時代の初めに醍醐天皇がおこなったように、天皇自身の考えで、国の政治を進めたいと思ったからです。後醍醐という名からも、その望みがたいへん大きかったことがわかります。
「政治の実権を手に入れるためには、高時を討たなければ……」
天皇は、ひそかに、倒幕の計画を進めました。しかし、計画は事前に幕府にもれて、計画にくわわっていた貴族たちは、捕えられてしまいました。1324年におこった正中の変です。
あきらめきれない天皇は、大きな寺や各地の武士を味方につけて、ふたたび、倒幕をくわだてました。ところが、またも秘密が幕府にもれてしまいました。
こんどは、貴族ではなく、自分の身が危険です。天皇は笠置山(京都府)にのがれ、楠木正成らを味方につけて、幕府軍と戦いました。しかし、幕府の大軍に勝てるわけはありません。天皇は捕えられ、隠岐島(島根県)へ流されてしまいました。
1333年、天皇は隠岐をぬけだし、幕府に不満をもつ伯耆国(鳥取県)の豪族名和長年のもとで、三たび立ちあがりました。そして、こんどこそ鎌倉幕府を滅ぼして京都へ帰りました。幕府に謀反をおこした足利高氏(尊氏)や、上野国(群馬県)の武将新田義貞らに、幕府を討たせたのです。
「くじけずに戦ったかいがあった。これで天皇の政治ができる」
46歳になっていた天皇は、年号を建武と改め、政務のための記録所や、争いごとを解決する雑訴決断所などを新しくもうけて、天皇中心の政治「建武新政」を始めました。
しかし、やっと実現した新政は、わずか1年でくずれてしまいました。武士よりも貴族をたいせつにする新政に不満をいだいた尊氏が、自分の力で武家政治をおこなうために、兵をあげたからです。1336年、戦いに敗れた天皇は、尊氏の力で、天皇の位を光明天皇にゆずらされてしまいました。
またも追われる身になった天皇は、吉野(奈良県)へのがれました。そして新政への夢をさらにつないで、もう1つの朝廷をつくりました。これが2つの朝廷が並ぶ南北朝の始まりです。
その後の天皇は、北朝(京都)と南朝(吉野)の統一に苦心しました。しかし、願いを果たせないまま、1339年、病にたおれてしまいました。天皇の政治のために戦いつづけた、波乱の生涯でした。
以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)22巻「親鸞・日蓮・北条時宗」の後半に収録されている7名の「小伝」をもとにつづりました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。
「1月23日にあった主なできごと」
1866年 寺田屋騒動…2日前に薩長同盟を締結させた坂本龍馬は、宿泊先の京都・寺田屋で、伏見町奉行所の捕り方に襲撃されました。同宿の養女・お龍は風呂から裸のまま2階へかけ上がり危機を知らせました。龍馬は銃で応戦、左手の親指を負傷しながらも脱出に成功しました。
1869年 薩長土肥藩主の版籍奉還…諸大名の封建支配が続いていては、真の国家統一はむずかしいと考えた明治政府の首脳、木戸孝允や大久保利通らは、その旧主に版籍(土地と人民)を政府に返還させることにしました。この日、薩長土肥4藩主の連名で、版籍奉還の上表文を提出。これをきっかけに、3月までに諸藩主すべてが奉還を願い出ました。