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アメリカ音楽の父・フォスター

今日1月13日は、「オールドブラックジョー」「故郷の人々」など数多くの歌曲を作曲したアメリカを代表する作曲家フォスターが、1864年に亡くなった日です。

150年の歳月を越えて世界の人びとに口ずさまれている『おおスザンナ』『草競馬』『なつかしきケンタッキーホーム』。このほか、およそ180の名曲を作ったステファン・コリンズ・フォスターは、1826年、アメリカ東部のペンシルベニア州ピッツバーグ市で生まれました。才能のある実業家を父にもち、10人兄弟の9番目でした。

12人の家族は、みんな音楽がすきでした。なかでもフォスターは、おさないころからいろいろな楽器にしたしみ、子どもの楽隊では、いつも、とくいになって指揮をとっていました。また、9歳のときには、近所の子どもを集めて劇団をつくり、自分は主役をしたり、フルートをふいたりして、出演料をかせいだこともありました。そして、14歳で中学校を卒業するときには、卒業式のために『ティオガ円舞曲』を作曲して、先生たちをおどろかせました。

15歳でジェファソン大学に入学しました。しかし、わずか1週間でやめてしまいました。音楽の道を、どこまでも進みたかったからです。

「よし、だれもがうたってくれる歌をつくろう」

フォスターは、理解のある父母や、やさしい兄たちに助けられながら、ピアノ演奏や作曲や外国語を学びました。そして、18歳で歌曲『窓をあけたまえ』を発表してからは、つぎつぎに詩を書き曲を作るようになりました。そして『おおスザンナ』が人びとのあいだでうたわれるようになると、フォスターの名まえは、またたくまにアメリカじゅうに知れわたっていきました。

心のやさしいフォスターは、アフリカからつれてこられた黒人奴れいたちのためにも、たくさんの歌を作りました。『オールド・ブラック・ジョー』は、さみしく死んでいった召使いのジョーにささげたものです。

また、愛する妻のためにも『金髪のジェニー』『小さいジェニー・ドウ』などの美しい歌を作り、しあわせな家庭をきずいていきました。

ところが、リンカーンが大統領になった1860年にニューヨークへでてからは、しだいに生活が苦しくなり、南北戦争がはじまって4年めの1864年に、思いがけないけがで、あっけなくこの世を去ってしまいました。まだ、38歳という若さでした。

フォスターは、ベートーベンやモーツァルトのような大音楽家ではありません。しかし、素朴な歌のかずかずは、国境を越えて、人びとの心にやさしい灯をともしつづけています。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)11巻「ナイチンゲール・シュリーマン・パスツール」の後半に収録されている7名の「小伝」をもとにつづりました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。

「1月13日にあった主なできごと」

1653年 玉川上水…江戸幕府は急増する江戸市民の水を補うために、町人(玉川)清衛門、庄衛門兄弟に建設を命じました。多摩川上流の羽村から四谷まで50km余に水を通す出す大規模な難工事で、翌年6月、江戸市内に流れこんだ清流に、江戸市民は躍り上がって喜びました。江戸の人口は、17世紀末には100万人に達し、ロンドンやパリを越えて世界一だったそうです。

1860年 咸臨丸出港…江戸幕府のオランダから購入した洋式軍艦咸臨丸は、この日品川沖からアメリカに向けて出港しました。勝海舟を艦長に、福沢諭吉、中浜万次郎らをのせて、初の太平洋横断に成功しました。

1935年 ザールがドイツ復帰…ドイツとフランスの国境にあり良質な石炭に恵まれ鉄鋼業や工業が盛んだったザール地方は、第1次世界大戦後ドイツ本国から分離され、フランスの保護領になっていました。この日の住民投票の結果、ドイツへ復帰、ヒトラーはこれをナチスの勝利として、さらに領土拡大のために軍備を整えていきました。

投稿日:2009年01月13日(火) 09:09

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コメント (1)

ヘンリーおじさん:

私も歌書きとして、Fosterは尊敬しております。
なんといっても、シンプルな曲を書くことは
難しいのです。
最近の歌を聴いていると、無理に高い音にしたり、
変に上下したり、音を外したりの意味不明の
歌が多いことに気がつきます。
そういう意味でフォスターはすごいですね。
きれいな旋律で心を癒してくれます。
これぞ名曲なのです。
音楽学校に行って、作曲を勉強しても、こんな歌が
書けるとは限らないのです。

フォスターはたったの38歳で死んでしまいました。
残念ですね。日本の偉大な作曲家の滝廉太郎なども
早死にでした。もっと長生きしてくれていたら、
もっと沢山の名曲が残ったのにと思うと、残念で
仕方がありません。

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)