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郵便の父・前島密

今日1月7日は、日本の近代郵便制度の創設者で、「郵便」「切手」「葉書」という名称を定めた前島密(まえじま ひそか)が、1835年に生まれた日です。

明治初期に、はじめて郵便制度がしかれるまで、手紙は飛脚が人をやとって配達していました。その飛脚から近代郵便制へとみちびいたのが前島密です。

越後(新潟県)に生まれました密は、生まれるとすぐに両親を亡くし、12歳のときに、医者になるため江戸に出ました。しかし、ペリーの浦賀来航の事件を知った18歳のころから、これからの日本に必要なものは何かを、真剣に考えるようになりました。そして、国の守りの状態を見てまわったり、機関学、航海術を学んだり、長崎に出てアメリカ人から英語を学んだりしました。

幕府内の革新をすることによって、近代日本をつくることを思いたった密は、幕府に仕えました。31歳のときでした。やがて世の中は激しくゆれ動き、明治の時代になり、密は新政府にまねかれてはたらくことになりました。そして、東京遷都や鉄道に関する意見書を出すなどの活躍をして、数か月後には、駅逓の責任者になりました。そのころの駅逓というのは、交通や通信をあつかうところですが、まだその当時は、飛脚問屋を監督する仕事が中心でした。

長崎で英語を学んでいたときに、外国の書物を読んだりアメリカ人教師から外国の郵便のしくみについて聞いていた密は、外国に学ばねばならないと強く考えるようになりました。そこで政府に願い出て、1870年から1年間、アメリカからヨーロッパの国ぐにをまわり、郵便の研究と調査をつづけました。この間に、密の構想していた政府の手による郵便制度(まず東京ー大阪間)が実施されました。これが1871年、近代郵便制度のはじまりです。

帰国後、駅逓頭という最高責任者となった密は、外国で学び考えてきたことを、次つぎと、情熱的に実行に移しました。まもなく東京の町に書状集箱という、いまのポストをおいたのを手はじめに、たくさんの町に郵便局をおき、たちまち郵便路線は全国に広がっていきました。手紙だけでなく、お金や新聞、本などを取りあつかう制度もはじめました。こうして郵便の制度を政府の事業にし、距離によってちがっていた料金は全国均一にして、郵便を国民にとって身近なものにしていったのです。

密は、郵便のほかにも、電話や鉄道の普及、新聞の発刊や、日本初の盲人学校の設立、国語改良運動などをおこないました。また、大隈重信らと立憲改進党の創立に参加したり、東京専門学校(いまの早稲田大学)の校長もつとめました。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)31巻「福沢諭吉・坂本龍馬・板垣退助」の後半に収録されている7名の「小伝」をもとにつづりました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。

なお、今日1月7日は、「七草がゆ」を食べる日といわれてきました。せり/なずな(ぺんぺんぐさ)/おぎょう(ははこぐさ)/はこべら(はこべ)/ほとけのざ(たびらこ)/すずな(かぶ)/すずしろ(だいこん)/春の七草 と歌われる7種類の草を入れたおかゆを食べれば、無病息災(病気にならず健康である)という風習は、平安時代以前に中国から伝わったといわれています。単なる迷信ではなく、ちょうど正月料理に飽きたころ、冬枯れの季節に青物を補給するという食生活上の効用が指摘されています。

「1月7日にあった主なできごと」

1868年 征討令…1月3日〜6日の鳥羽・伏見の戦いに勝利した維新政府は、この日江戸城にこもった徳川慶喜に征討令を出し、同時に諸藩に対して上京を命じました。征討軍の総帥は西郷隆盛。そして4月11日、徳川家の謝罪を条件に江戸城・明け渡し(無血開城)が行なわれました。

1932年 スティムソン・ドクトリン…アメリカの国務長官スティムソンは、この日「満州における日本軍の行動は、パリ不戦条約に違反するもので、これによって生ずる一切の状態を承認することはできない」との声明を発し、日本政府を弾劾しました。これが、太平洋戦争に至るアメリカの対日基本方針となりました。

1989年 昭和天皇崩御・・・前年から容態が危ぶまれていた昭和天皇が、この日十二指腸の線がんで亡くなりました。皇太子明仁親王が即位し、昭和64年は平成元年となりました。昭和は日本の元号のなかでは最も長い62年と2週間でした。

投稿日:2009年01月07日(水) 09:15

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コメント (1)

糸瀬勝彦:

 私が明治維新において、最も尊敬する前島密を取り上げていただき感謝いたします。氏の活躍は新時代の日本にとって、われわれ市民にとって、計り知れない恩恵をもたらしたものだと今でも感謝しております。

 そういう意味での氏の評価は小さすぎるといつも不満におもっておりますが、それがまた、前島密の前島密たる所以でもあるのかなともおもっております。
 
 彼の残した郵政事業は日本の宝とおもっております。

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)