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新劇の父・小山内薫

今日12月25日は、明治末から大正・昭和初期に演劇界の発展に努めた劇作家、演出家の小山内薫(おさない かおる)が、1928年に亡くなった日です。

1923年の関東大震災で、東京は焼け野原になりましたが、次の年、その東京の築地に、わが国で初めての、新劇専門の築地小劇場が誕生しました。小山内薫は、この劇場を演出家の土方与志(ひじかた よし)と力をあわせて建て、日本の新劇運動の発展に力をつくした劇作家です。

1881年、広島で軍医の家に生まれ、東京帝国大学へ進んだ薫は、学生時代から小説、戯曲、劇の評論などを書き、早くから、たくさんの演劇人とまじわりを深めていきました。そして、大学を終えると、まもなく歌舞伎役者の2世市川左団次と手をむすんで劇団「自由劇場」をつくり、新しい演劇運動にのりだしました。

明治時代の終わりのころの演劇には、歌舞伎と新派劇のふたつがありました。新派劇は、歌舞伎にくらべると新しいものでしたが、それでも役者には歌舞伎役者を使うなど、歌舞伎の影響の強いものでした。

自由劇場の第1回の公演で、ノルウェーの劇作家イプセンの劇を上演した薫は、歌舞伎でも新派劇でもない、もっと人間のありのままの心を表現する自由な演劇を生みだすことを、夢にえがいたのです。「自由劇場」は、その後、ゴーリキーやチェーホフなどロシアの作家が書いたものや、日本の新しい劇の上演を続け、いっぽう薫は、ロシア、ドイツ、イギリスなどをたずねて外国の新しい演劇を学びました。しかし、劇場は、新劇の役者が育たなかったことや、上演の資金にゆきづまったことなどから、およそ10年で幕をおろさねばなりませんでした。

「新劇のための演劇学校がほしい」このように考えていた薫は、築地小劇場をつくると、ふたたび立ちあがりました。

築地小劇場は、500人ほどの人しか入れない、文字どおりの小さな劇場でしたが、薫は、これを「演劇の実験室」と呼び、東洋の演劇と西洋の演劇をとけあわせて日本の新しい劇を育てていくことに、いどみました。

ところが、初めの数年間は、外国のほん訳ばかりを上演したため、日本の劇作家や小説家たちから「日本の劇をばかにしている」と、ののしられました。やがては日本の劇も上演するようになりましたが、日本の新劇が芽をだし始めたばかりの時代では、ほん訳劇が中心になるのはしかたのないことでした。

薫は、西洋の劇をみごとに演出してみせることによっても、日本の演劇界に大きな影響をあたえ、また、おおくの名俳優も育てて、47歳で亡くなりました。薫は、いまも、日本の新劇の父とたたえられています。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)35巻「与謝野晶子・石川啄木」の後半に収録されている14名の「小伝」をもとにつづりました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。

「12月25日にあった主なできごと」

800年 カール大帝即位…カール大帝(シャルルマーニュ)は、この日聖ピエトロ寺院で、ローマ教皇からローマ皇帝として戴冠されました。大帝は、ゲルマン民族の大移動以来、混乱した西ヨーロッパ世界の政治的統一を達成、フランク王国は最盛期を迎えました。

1897年 赤痢菌の発見…細菌学者志賀潔は、この日赤痢菌の病原菌を発見したことを「細菌学雑誌」に日本語で発表しました。しかし、当時の学会はこれを承認しなかったため、翌年要約論文をドイツ語で発表、この論文で世界的に認められることになりました。

1926年 大正天皇崩御…1921年には当時20歳だった皇太子・裕仁親王が摂政に就任していましたが、この日大正天皇の崩御により、裕仁親王が天皇の位を受けついで「昭和」となりました。

投稿日:2008年12月25日(木) 09:12

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)