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インド航路の発見者バスコ・ダ・ガマ

今日12月24日は、ポルトガルの航海者で、アフリカ大陸南端まわりのインド航路を発見し、ポルトガル海上帝国の基礎を築いたバスコ・ダ・ガマが、1524年に亡くなった日です。

バスコ・ダ・ガマが、ポルトガルの国王マヌエル1世の命令をうけ、インドにむけて船出したのは、1497年7月のことです。

それまでにもポルトガルは、アフリカをまわって東洋にでる航路を発見しようと、何十年もまえから探検船をくりだしていました。アフリカ大陸の西岸ぞいを南へすすみ、南端の喜望峰まではたしかめていましたが、それから先は、まだまったく知られていませんでした。

危険をおかしてまでインドへいく目的は、香辛料を手に入れることです。コショウやチョウジなどの香辛料は、肉食を好むヨーロッパ人に、欠かせないもので、アラビアの商人からたいへん高いねだんで買っていました。そこでポルトガルは、香辛料をインドから直接に安く持ってこようと考えたのです。

ガマを隊長とする163人の探検隊は、4せきの船にわかれて乗り、リスボン港を出帆して、大西洋のまっただなかを南へ進みました。喜望峰をまわったのは、11月のなかごろです。はげしいあらしや寒さにおそわれました。先のわからない航海ですから、船員たちの不安や不平がつのってきます。ついに暴動がおこりかけました。ガマ隊長は、暴動をくわだてた者をむちうちの刑にして、みんなに、どうしてもインドへいくことを強くいいわたしました。

年があけて、1498年になりました。アフリカの東海岸を北にむかって、航海はつづきます。何度も上陸しては休み、飲料水をくんで、また船を走らせます。4月のなかごろ、メリンダという港にはいったとき、そこで、すぐれた水先案内人をのせることができました。心強い仲間を得て、一気にインド洋を東へむかいました。

5月20日、ついにガマはインド西岸のカリカットにつき、インド発見の石柱をうちたてました。10か月以上にわたる苦しい船旅でした。しかし、このインド航路を開いたことにより、ポルトガルはインドと直接、香辛料などを取引きすることができるようになりました。そして、ヨーロッパきっての海洋王国として、さかえるきっかけをつかんだのです。

1499年9月、使命をはたしたガマ隊長の船が、リスボンに帰ってきました。船員の半数以上が死んでしまい、帰国したのはわずか55人です。おおくの犠牲をはらった航海でした。

ガマは、そのご数回インドへわたり、ポルトガルのインド征服のために力をそそぎました。功績をたたえられてインド副王を任じられたガマは、インドにでむいた1524年、病死しました。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)4巻「シャンヌダルク・コロンブス・マゼラン」の後半に収録されている7名の「小伝」をもとにつづりました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。

「12月24日にあった主なできごと」

1814年 ガン条約…ナポレオンの大陸封鎖に対抗し、イギリスはアメリカの海上を封鎖。フランスとアメリカの交易を妨害したことにより1812年、英米戦争が勃発しました。この日ベルギーのガンで、両国は講和条約に調印(ガン条約)、アメリカとカナダとの国境が確定しました。

1897年 日本初の無線通信…東京月島から金杉沖にある人口島に電波を送ることに成功、この技術は後にラジオ放送などに応用されました。

1953年 奄美群島返還協定…1972年の沖縄返還協定に19年先立ち、奄美群島(奄美大島・喜界島・徳之島・沖永良部島・与論島)をアメリカから日本に返還する調印が、この日行なわれました。

投稿日:2008年12月24日(水) 09:20

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)