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名裁判官? 大岡忠相

今日12月19日は、江戸時代中期に活躍し、「大岡政談」の越前守として有名な大岡忠相(おおおか ただすけ)が、1751年に亡くなった日です。ただし、名裁判官ぶりはほとんど作り話で、江戸市民に愛され尊敬されていた忠相の人柄が、人情味あふれる庶民の味方として認識され、講談などで広く知られるようになりました。

大岡越前守という奉行が、胸のすくような裁判をして、弱い者をたすける「大岡裁き」の話は、いまでもテレビドラマをはじめ講談、落語、演劇などでしたしまれています。

その大岡越前守は、名を忠相といい、1677年、徳川の旗本の家に生まれましたが、10歳のころ、親類の大岡忠真の養子となりました。25歳で養父のあとをつぎ、幕府の役人になった忠相は、まじめなうえに有能でしたから、とんとん拍子に昇進していきました。

35歳のとき忠相は、伊勢神宮の事務や、伊勢(三重県)山田でおこった事件の裁判をおこなう山田奉行を命じられました。当時山田では、長い間となりの松坂と境界のことでもめていました。これを正当に裁判すれば、とうぜん山田側の勝ちになるものを、松坂が徳川御三家のひとつである紀州藩の領地であることから、これまでの山田奉行はこの争いをうやむやにしていたのです。そのため、奉行のかわり目ごとに必ず訴訟がおこっていました。それに対し忠相は、当然のことを当然におこなうという勇気をもって処理しました。忠相の公正な判決は評判になり、それが紀州藩主徳川吉宗の耳にも入りました。

やがて、吉宗が8代将軍にむかえられると、かねてから忠相の人物に感心していた吉宗は、忠相を江戸町奉行につけました。

忠相は、この江戸町奉行を20年近くつとめました。このときの有名な「大岡裁き」の話は、ほとんどが作り話です。しかし、忠相が名裁判官だったことは事実で、人情をよく理解し才知にとんだ公正な裁判をおこなったと思われます。また、司法改革にも力を入れ、連座制といって重い罪をおかした者の親子、兄弟、親るいまで罰せられた制度をゆるめたり、証拠のある重罪のばあいのほかは、拷問を禁じるなどの改革に重要な役割を演じました。

忠相は、裁判ばかりでなく、「享保の改革」を行なった将軍吉宗の片腕となって数かずのりっぱな仕事を残しています。

青木昆陽のサツマイモ栽培のきっかけは、忠相がつくったもので、飢饉のとき、たいへん役に立ちました。また、江戸の消防のしくみをつくったのも忠相です。「いろは47組」とよばれ、各地域に専門の消防組をおいたり、飛火を防ぐためにあき地をもうけたり、江戸名物の火事にそなえました。

59歳になった忠相は、寺社奉行になり、やがて三河(愛知県)に1万石の領地をあたえられ、大名に列せられました。

吉宗の死から半年後、74歳の忠相もしずかに世を去りました。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)27巻「本居宣長・杉田玄白・伊能忠敬」の後半に収録されている7名の「小伝」をもとにつづりました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。

「12月19日にあった主なできごと」

1596年 26聖人処刑…豊臣秀吉は、京都や大坂(大阪)で布教していたフランシスコ会のスペイン人宣教師7名と、日本人信者ら計26名を捕え、この日長崎で処刑しました。スペイン船の乗組員が「宣教師の布教は、領土拡大のため」といったという話を聞いた秀吉が、腹を立てたことが原因。

1961年 ゴアの解放…1510年からポルトガル領だったインド西海岸の都市ゴアを、インド政府はポルトガル政府に何度も無血解放を求めていましたが解決に至らず、この日武力解放にふみきり接収しました。

1984年 香港返還の合意…アヘン戦争を終結させるため、清とイギリス間で結ばれた南京条約(1842年)により、イギリスに割譲された香港でしたが、イギリスと中国はこの日、香港返還合意文書に調印。1997年7月1日、香港はイギリスから中国へ返還され、特別行政区となりました。

投稿日:2008年12月19日(金) 09:10

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)