今日12月9日は、講道館柔道の創始者であり、日本のオリンピック初参加に尽力するなど、スポーツの海外への道を開いた嘉納治五郎(かのう じごろう)が、1860年に生まれた日です。
「敵をたおして勝つことだけが目的ではない。技をみがきながら、人間の心とからだをきたえるのが柔道だ」
このように信じて講道館柔道をおこした嘉納治五郎は、摂津国(兵庫県)で生まれました。家は、大きな造り酒屋でした。
8歳のときに明治時代を迎えた治五郎は、それから3年のちに東京へでて英語や漢学を学び、やがて東京大学へ進んで政治、哲学、経済学を勉強しました。また、大学へ入るまえから天神真楊流の福田八之助の道場へ入門して、柔術を習っていました。少し背が低いうえに、からだが弱かった治五郎は、人に負けない強い心と、たくましいからだが、ほしかったのです。
きびしいけいこで、いつも、からだじゅうのすり傷に万金膏というこう薬をはっていた治五郎は、友だちから「万金膏の嘉納」と、あだ名をつけられていました。
大学を卒業すると学習院の先生になりました。でも、柔術への情熱は燃やしつづけ、東京下谷の永昌寺に道場を開きました。これが講道館の始まりです。治五郎は、まだ22歳でした。
柔術を柔道と改めた講道館には、治五郎の人格をしたっておおくの門人が集まりました。そして、柔道をばかにしていた警視庁の柔術との試合に2度も勝って、講道館柔道の名を日本じゅうに広めました。29歳のときに、本郷真砂町に大きな道場を作ったころには、入門者は1500人を超えていたということです。
教育者としてもすぐれていた治五郎は、やがて、第一高等中学校(のちの第一高等学校)の校長をへて、33歳のときには東京高等師範学校(今の筑波大学)の校長になり、それから26年あまりのあいだ、教師として巣立っていく若い人びとの教育に力をつくしました。体格も人格もりっぱな日本人を育てることが、治五郎の生涯の願いでした。
1909年、フランスのクーベルタン(近代オリンピックをおこした人)にたのまれ、日本人として初めて国際オリンピック委員になりました。そして、1912年にストックホルムで開かれた第5回大会には、マラソンの金栗選手らをつれて参加しました。日本がオリンピックに参加したのは、これが初めてでした。
治五郎は、こうして日本人がスポーツをとおして世界の人びとと手をむすぶことにも、努力をつづけました。しかし1938年にエジプトのカイロで開かれたオリンピック委員会から帰る途中、治五郎は、太平洋の船の上で亡くなってしまいました。
柔道は、1964年の東京大会からオリンピックの正式種目になりました。治五郎が講道館をおこして82年後のことでした。なお、1978年からは、治五郎の名を冠した「嘉納治五郎杯国際柔道選手権大会」が、10回以上も開かれています。
以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中) 33巻「牧野富太郎・豊田佐吉」の後半に収録されている14編の「小伝」をもとにつづりました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。
「12月9日にあった主なできごと」
1159年 平治の乱…当時源義朝らの源氏と、平清盛らの平氏の2大勢力がしのぎをけずっていました。この日、平治の乱がはじまり、源義朝は殺害され、その子頼朝は捕えられて、平氏は全盛期を迎えることになります。
1867年 王政復古の大号令…討幕派である薩長の武力を背景に、天皇親政をうたいあげた王政復古の大号令が発せられられました。幕府・摂政・関白を廃止し、総裁、議定、参与の3職をおき、神武天皇の創業の昔にもどり、身分の別なく天下のために努力せよ、といった内容が盛り込まれていて、その後の政治の性格を規定するものでした。これにより、薩長は、徳川の実権を完全に奪い取ることに成功しました。
1945年 農地改革…連合国軍総司令部(GHQ)は、占領政策として経済構造の民主化をはかりましたが、そのひとつが、この日指令された「農地改革に関する覚書」(もうひとつは財閥解体)。47年から49年の間に、全国260万町歩の小作地のうち200万町歩が自作農に解放され、地主制はほぼ壊滅することになりました。