今日11月28日は、すぐれた物理学者であるばかりでなく、随筆家としても名高い寺田寅彦(てらだ とらひこ)が、1894年に生まれた日です。
寺田寅彦は、西南戦争が起こった次の年1878年に、陸軍につとめる会計官の子として東京で生まれました。でも父が何度も転勤したので、少年時代は、ほとんど、父の郷里の高知で育ちました。
小学生のころは、虫とりと、顕微鏡をのぞくことと、読書がすきでした。学校の授業は、からだが弱かったので体育がにがてでした。それに、算数もきらいでした。夏休みに、両親のいいつけで算数を習いに行くことになったときは、べそをかいていたということです。
中学校の入学試験には、いちど失敗してしまいました。そして、無事に入学してからも、勉強にはあまりむちゅうにならず、ますます本を読みふけるかたわら、外国からつたわってきたばかりの野球などを楽しみました。
18歳で高知に別れをつげて熊本第五高等学校へ進み、3年ごには、東京帝国大学へ入学しました。
寅彦が物理学者になる決心をしたのは、高等学校で田丸卓郎教授の教えを受けて、物理学と数学のおもしろさを知ってからのことです。寅彦は先生にめぐまれました。高校時代に夏目漱石に出会ったこともそうです。漱石からは英語をおそわっただけではなく、俳句を習い、文学の話を聞いて人間を深めました。
寅彦は、そのご生涯、漱石を先生とあおぎました。のちに、吉村冬彦、藪柑子などの名で名随筆を書くようになったのは、青春時代に、大文学者漱石にめぐり会えたからです。
大学でも、田中館愛橘、長岡半太郎など、日本の科学をきり開いた物理学者の指導を受けることができた寅彦は、大学院を卒業するとそのまま東京帝国大学へ残って、講師から助教授、教授へと進みました。また、水産講習所で海洋学を教えたほか、航空研究所、理化学研究所、地震研究所などにも研究室をおいて、はばの広い研究活動をつづけました。
寅彦は、大きな発明や発見を追いかける物理学者ではありませんでした。おもに、実験してものをたしかめる実験物理学に力をそそぎ、研究は地味でした。しかし、その独特な研究のしかたで、おおくの学者や研究者を育て、日本の物理学の発展に大きな功績を残しました。
いっぽう『冬彦集』『藪柑子集』『万華鏡』などの随筆集も、数おおく残しました。真実を求める科学者の目で、自然、社会、人間を見つめた随筆は、名作小説もおよばない光を放ち、いまも、寅彦随筆集として広く読みつがれています。
以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中) 35巻「与謝野晶子・石川啄木」の後半に収録されている14編の「小伝」」をもとにつづりました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。 なお、オンライン図書館「青空文庫」では、寺田寅彦の随筆284編 を読むことができます。
「11月28日にあった主なできごと」
1883年 鹿鳴館時代のはじまり…日本で初めての洋式社交クラブ「鹿鳴館(ろくめいかん)」が、内幸町に開場しました。欧米の列強が不平等条約改正に応じないのは、日本が欧米並みに文明開化していないからという判断から、外務卿井上馨の欧化政策の象徴として建設されたもので、この日は井上の誕生日。翌年には日本初の舞踏会を開くなど、はなやかな欧化主義の「鹿鳴館時代」といわれましたが、井上の鹿鳴館外交への風当たりは次第に厳しいものとなり、さらに外国人判事の任用などを含む条約改正案が世間に知られると大反対が起こって、井上は1887年4月に外務卿の辞任に追いこまれ、鹿鳴館時代は終焉しました。
1947年 パレスティナ分割案国連で可決…第1次世界大戦後、トルコからパレスティナ統治をまかされたイギリスは、この地に国を建設しようとするユダヤ人とアラブ人双方に国家建設を認める約束をしていました。このイギリスの二重外交が、第2次世界大戦後にユダヤ・アラブ間の民族的・宗教的な対立を激化させることとなり、パレスティナ問題は、国連の決定にゆだねられることになりました。そして、この日国連総会は「パレスティナは、アラブ、ユダヤの両国家に分割される」という決定をし、1948年5月にイスラエル共和国が誕生。しかし、アラブ国家はこれを認めず、すぐに第1次中東戦争が勃発しました。