今日11月25日は、ちみつな構成と華麗な文体で人気のあった作家でありながら、アメリカに従属する日本を憂えて自衛隊の決起をうながすも受け入れられず、割腹自殺をとげた三島由紀夫が、1970年に亡くなった日です。
1970年(昭和45年)11月25日、東京市ヶ谷にある陸上自衛隊ではたいへんな騒ぎが起こりました。三島由紀夫が、自分のひきいる「楯の会」の4人の会員とともに、総監室になだれこみ、バルコニーから、ビラをまき、演説をはじめたのです。
「今の憲法は、自衛隊をはっきり認めていない。自衛隊を正しい姿とするために、いっしょに死を決して立ち上がろう」
しかし、演説を聞いた自衛隊員は、ただヤジをあびせるばかりでした。三島は、総監室にもどると、腹を切り、会員の森田必勝が三島の首を打ちおとしました。森田も、あとを追って腹を切りました。新聞やテレビは、この事件を「気ちがいじみた行動」と報道し、人びとも、作家の三島がなぜこのような行動に走ったのか、首をかしげました。
1925年(大正14年)1月14日、三島由紀夫(本名平岡公威)は、東京四谷に生まれました。父は農林省の官吏でした。三島は少年のときから、文学に親しみ、父は反対しましたが、その強いこころざしをとめることはできませんでした。19歳のときには、早くも最初の短篇集『花ざかりの森』を刊行しました。才能を認められ、21歳のとき、川端康成の推せんによって『煙草』が雑誌に発表されて、文壇に登場しました。
これから三島は『仮面の告白』『青の時代』『金閣寺』『潮騒』などを書きます。緊密で論理的な構成と、ゆたかで機知にとんだ文章によってきずかれた、それらの独自な世界は人びとの注目を集めました。いっぽう、演劇の世界でも、『近代能楽集』『若人よ蘇れ』『十日の菊』などの戯曲で、そのはなやかな才能を示しました。また、翻訳された作品は、海外でも高い評価を得ています。
三島は、小さいときは虚弱でした。それだけに強いからだ、強い心にあこがれました。多くの作家たちが、弱いからだ、弱い性格にもたれかかって作品を書いているのをきらい、からだをきたえました。剣道、空手、ボクシング、ボディビルにはげみ、「楯の会」では自衛隊と共同訓練を行いました。また、社会のできごとに対しても積極的に発言したので、その存在がいつも話題の中心となる作家でした。
三島由紀夫は、なぜ死を選んだのでしょうか。
「物質的な繁栄に精神を失った日本の現状を真剣にうれえたのだ」と言う人もあれば「自分の文学の限界を知ったので、ああした形で死を選んだのだ」という人もあります。そのどれとも言いきれないところに、その死の複雑な意味があるといえます。
以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中) 36巻「宮沢賢治・湯川秀樹」の後半に収録されている14名の「小伝」をもとにつづりました。近日中に、300余名の「小伝」を公開いたします。
「11月25日にあった主なできごと」
1890年 第一回帝国議会の開催…明治憲法発布翌年のこの日、帝国議会が開かれました。議会は、貴族院と衆議院の2院からなり、貴族院議員は皇族・華族、多額納税者などから選ばれました。衆議院の議員は、25歳以上の男子で国税15円以上を納める人に限られるなど、当時の人口のおよそ1パーセントが有権者であるにすぎませんでした。
1892年 オリンピック復活の提唱…クーベルタン男爵はアテネで古代競技場が発掘されたことに刺激され、スポーツによる世界平和を築こうとオリンピック復活の提言を発表、オリンピック委員会が作られました。
1987年 ハイビジョンの日…高精密度テレビ「ハイビジョン」の走査線が、従来のテレビの走査線525本に対し、1125本であることから、この日が「ハイビジョンの日」と制定されました。