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数奇な生涯をとげた中浜万次郎

今日11月12日は、漂流の末アメリカ船にすくわれ、アメリカで教育を受け、アメリカ文化の紹介者として活躍した中浜万次郎(ジョン万次郎)が、1898年に亡くなった日です。

中浜万次郎は、日本が鎖国から開国になろうとする時代に、漂流が大きく運命を変え、漁師の子でありながら、武士にとりたてられて英学者にまでなった人です。

万次郎は、土佐国(高知県)の漁師の家に生まれ、子どものころから漁の手つだいをして家のくらしを助けていました。

1841年、万次郎が13歳のとき、浜の人たち4人と漁に出ました。ところが、途中で暴風雨になり、7日間もさまよったすえに、鳥島という無人島に流れつきました。5人は雨水をたくわえては飲み、アホウドリをとらえ、貝をひろい、木の根をほって飢えをしのぎ、夜はほら穴にねむるという苦しい毎日を送りました。そして約半年ご、運よくアメリカ捕鯨船ジョン・ホーランド号にすくわれました。船長も船員も親切で、かしこくてよくはたらく万次郎を、船の名をとって「ジョン万」と呼んでかわいがりました。船は無事ハワイにつきましたが、4人の仲間はハワイで降り、船長に気に入られた万次郎は学校へ通うため、アメリカ本土に渡りました。そして、船長の郷里で測量や航海術を学んだあと、捕鯨船に乗って太平洋をかけめぐりました。しかし、日本への思いはつのるばかりでした。

1850年、23歳になった万次郎は、商船にやとわれてハワイにいる仲間たちのところへいきました。4人のうちひとりはすでに死に、ひとりはハワイに残ることになって、3人で中国ゆきのアメリカ汽船に乗りこみました。船が琉球(沖縄)の沖にさしかかったとき、小舟をおろし、死をかくごで沿岸に上陸しました。鎖国をしていたそのころは、1度外国に出た者は、2度と日本の土をふめなかったからです。3人はすぐに捕えられ、きびしいとり調べを受けました。しかし、琉球を管轄する薩摩藩主の島津斉彬は、万次郎の英語力や造船知識に注目し、藩の英語講師に抜擢しました。やがて釈放され、1852年10月、12年ぶりになつかしい故郷に帰ることができました。

ふたたび漁師の生活にもどった万次郎のところへ、まもなく藩の使いがきました。万次郎の語学力と的確な話ぶりに感心した山内豊信が、万次郎を武士にとりたてて、藩の学校の先生に登用しようというのです。藩の有志は、万次郎から外国の話を聞いたり、英語を学びました。そのなかには坂本龍馬や岩崎弥太郎のすがたもありました。

1853年に、万次郎は幕府に抜てきされ、造船技術や航海術などをおしえました。幕府が訪米使節団を派遣したときには、勝海舟らの通訳として咸臨丸でアメリカへ渡りました。帰国ごは開成学校(のちの東京大学)の教授にもなって、新しい学問や文化の発展につくしました。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中) 31巻「福沢諭吉・坂本龍馬・板垣退助」の後半に収録されている7名の「小伝」をもとにつづりました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。

「11月12日にあった主なできごと」

1871年 日本初の女子留学生…岩倉具視を団長に、伊藤博文、木戸孝允ら欧米巡遊視察団48名がこの日横浜港を出港。そこに59名の留学生も同乗、その中に後に「女子英学塾」(現在の津田塾大学)を設立する6歳の津田梅子ら5名の女子留学生の姿がありました。

1948年 極東軍事裁判判決…太平洋戦争敗戦後、GHQ(連合軍総司令部)による占領政治が開始されると、満州事変以来の政府と軍部指導者の戦争責任をさばく極東軍事裁判(東京裁判)が1946年から31か月にわたっておこなわれました。この日に最終判決が下され、東条英機ら7名に死刑、被告25名全員が有罪とされました。

投稿日:2008年11月12日(水) 09:16

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)