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ロマン派の代表作曲家・メンデルスゾーン

今日11月4日は、世界3大バイオリン協奏曲(コンチェルト)の一つと賞賛される「バイオリン協奏曲」をはじめ、「真夏の夜の夢」「フィンガルの洞窟」などを作曲したことで知られるメンデルスゾーンが、1847年に亡くなった日です。

フェリックス・メンデルスゾーンは、19世紀前半の、ドイツの作曲家です。1809年、大銀行家を父にハンブルクに生まれ、幼いときから、教養豊かな母にピアノをおそわりながら育ちました。

1811年、一家は、ドイツ文化の中心地ベルリンへ移りました。メンデルスゾーンは、まもなく、すぐれた音楽教師から、正式にピアノと作曲を習いはじめました。父の招きで家の大広間に集まった芸術家たちには、たいへん、かわいがられました。また、大広間では、いつも音楽会が開かれ、めぐまれた環境につつまれて自分の才能をのばすことができたメンデルスゾーンは、このうえなく幸せでした。

9歳のときには早くもピアノ演奏会を開いて、人びとのかっさいをあびました。また、その3年ごにはゲーテをたずね、バッハやモーツァルトの曲を演奏して、このとき72歳だったドイツ最大の文豪をすっかり感心させました。

15歳のころから、交響曲、協奏曲、歌劇の作曲を始めました。そして、17歳のとき、シェークスピアが書いた喜劇に感激して『真夏の夜の夢』の序曲を発表すると、作曲家メンデルスゾーンは、たちまち、世界の大作曲家たちと肩を並べるほどになりました。

音楽を広く愛したメンデルスゾーンは、作曲だけではなく、音楽会では指揮棒をふって、かずかずの名曲を人びとに贈りました。なかでも、1829年に、バッハの死ご80年ものあいだ1度も演奏されたことがなかった『マタイ受難曲』を指揮して、バッハの偉大さをふたたび世に知らせたことは、大きな功績でした。

ピアノ演奏家、作曲家、指揮者として名を高めたメンデルスゾーンは、24歳の年から、ドイツ音楽界の指導者として活躍するようになりました。デュッセルドルフ市の音楽監督、世界で最も古いゲワントハウス管弦楽団の指揮者、ベルリン芸術大学の教授などに、つぎつぎにむかえられたのです。また、ライプチヒ音楽学校をつくり、数年のうちに、ヨーロッパ最高といわれるほどの音楽学校に育てあげました。

1844年に名曲『バイオリン協奏曲』を発表して、つぎの年にはいっさいの職をしりぞき、作曲ひとすじの生活に入りました。しかし、おそすぎました。休みなく仕事をつづけてきたメンデルスゾーンのからだは、すっかり弱り、1847年に心からしたっていた姉が亡くなると、同じ年に、姉のあとを追うようにして38歳の短い生涯を終えてしまいました。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中) 9巻「スチーブンソン・シューベルト・アンデルセン」の後半に収録されている7名の「小伝」をもとにつづりました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。

「11月4日にあった主なできごと」

1921年 原敬首相刺殺される…平民宰相といわれた原敬(はら たかし)首相が、東京駅で19歳の鉄道員に刺殺され、65歳の生涯を終えました。当時、原内閣の社会主義運動への弾圧、普通選挙法への反対、シベリア出兵の強硬など、資本家の利益につながる政治腐敗に対し、民衆の非難が高まっていました。

1946年 ユネスコの成立…国際連合には、総会、安全保障理事会などさまざまな仕事がありますが、それ以外に経済、社会、文化などを扱う専門機関があります。ユネスコもその一つで、正式には「国際連合教育科学文化連合」といい、それぞれの英文の頭文字だけをとってUNESCO (ユネスコ)と呼んでいます。この日「ユネスコ憲章」が発効し、正式に成立しました。ユネスコの役割は、異なる文化や思想を持つ国々同士のつながりを理解し、平和と安全をはかろうとするものです。日本は1951年に加盟、学校給食がはじめられたのはユネスコの力によるものでした。よく知られている「世界遺産」も、1972年のユネスコ総会で採択された条約で、世界遺産リストに登録された遺跡、景観、自然など、人類が共有すべき普遍的価値をもつ不動産をさすものです。

投稿日:2008年11月04日(火) 12:52

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)